2021年11月9日火曜日

解離における他者性 39

 ちなみにここでこのPutnam 先生のDBSの理論についてはかつてのブログの内容を含めて、以下にまとめておこう。私の昔の院生であったイケメンのND君がまとめてくれたのを、再び使わせていただく。2014624日にこれについてこのブログで掲載している。彼はPutnam先生の1997年の文献とはFrank W. Putnam: Dissociation in Children and  Adolescents: A Developmental Perspective. Guilford  Press, 1997 であり、私の解離に関する前々著「続・解離性障害」2011年、岩崎学術出版社,p141.でも軽くまとめてある。

以下、ND氏のまとめ。(ナガイ君。しっかり勉強しているかな。)

 「Putnam1997)の離散的行動状態モデルでは,人間の行動を限られた一群の状態群の間を行き来することと捉えており,DIDの交代人格もその状態群の中の1つであるとする.交代人格という状態は,その他の通常の状態とは違い虐待などの外傷的で特別な環境下で学習される.そのため,交代人格という状態とその他の通常の状態の間には大きな隔たりと,状態依存性学習による健忘が生じると考える.

詳しく説明すると,以下のようになる.Putnam1997)にとって精神状態・行動状態というのは,心理学的・生理学的変数のパターンから成る独特の構造である.そして,この精神状態・行動状態はいくつも存在し,我々の行動はその状態間の移行として捉えられる.乳幼児を例にとれば,静かに寝ているノンレム睡眠時が図22の行動状態Ⅰ,寝てはいるものの全身をもぞもぞさせたりしかめ面,微笑,泣きそうな顔などを示すレム睡眠時が行動状態Ⅱ,今にも寝入りそうでうとうとしている状態が行動状態Ⅲ,意識が清明だがじっとして安静にしている状態が行動状態Ⅳ,意識が清明で気分がよく,身体的な動きが活発な状態が行動状態Ⅴ,意識が清明で今にも泣きそうな状態が行動状態Ⅵ,そして大泣きしている状態が行動状態Ⅶといった具合になる.状態が増えれば,それだけ行動の自由度が増す.これらの状態は互いに近しいものもあれば遠いものもあり,いわば1つの部屋の中に離散的(離れて)に付置されている状態にある.そして,その状態間を行き来するための経路は,たとえば行動状態Ⅰと行動状態Ⅱはともに行き来可能だが行動状態Ⅰと行動状態Ⅶの間には経路は存在しないといったように,ある規則に従って定められている.この行動状態の構造が,個々人の人格を定義するものとなる.

 上記のような状態群は,大抵の乳幼児には観察できるものであろう.しかし,被虐待児の場合は,その他にやや特別な行動状態群を形成する.虐待エピソードのような恐怖に条件づけられた行動状態は,血圧・心拍数・カテコールアミン濃度などの自律神経系の指数の上昇といった生理学的な過覚醒と連合している.それは極めて不快で,我々の大部分にとっては日常体験の外に存在するものである.上記Ⅰ~Ⅶの行動状態を“日常的な行動ループ”とすれば,虐待エピソードで獲得された状態群は独自の性質をもつ“外傷関連の行動ループ”といえよう.この2つの行動ループは,いわば同一の部屋には納まるものの互いに離れたところに付置し,そのために行動全体がまとまりをなくすという状態になる.
 
心理的外傷を負った子どもが,それを想起させるような刺激に遭遇し感受性が高まると日常的な行動ループにいても外傷関連の行動ループを活性化させ,一足飛びにその状態へスイッチングする.しかし日常的な行動ループと遠く隔たった場所に存在する外傷関連の行動ループは,いつでもそこへ接近が可能なわけではない.情報というのは,多かれ少なかれ状態依存的な性質をもっているため,外傷関連の行動ループにもそれを獲得したときの状況と類似した状況であると認識しないと接近が困難である(このことは,第三者から見て外傷状況とは類似しない状況でも,本人が似ていると認識すれば接近してしまうということにもなる).ゆえに,外傷に関連する行動状態と日常的な行動状態とを結合する経路は,他の経路と比べると滅多に使われない.このように,異常な解離状態とは日常的な行動ループから遠く隔たった場所にある行動状態群で,かつそこへの接近がいつでも可能なわけではないものということになる.その典型例がDIDにおける交代人格である

 Putnam1997)の説は,虐待などの特殊な状況での意識状態が,普段の意識とは離れたところに存在するという解離の基本骨子は引き継ぎつつ,そこに行動状態群という概念をもち込み,これまでDIDの成因論において中心的には扱われてこなかった状態依存学習を前面に強調した点が独創的である.ここに紹介する研究家の多くはJanetの解離理論をその基礎としているが,外傷的出来事が通常の記憶パターンとは異なる記憶パターンになる,つまり解離され普段は意識にのぼりにくい別個の記憶パターンとなるということに異議を唱える研究者もいる.たとえば八幡(2010)は,最近の認知心理学における記憶研究はそうした記憶の仕方を支持していないという.これに対し,交代人格に伴う健忘や虐待エピソードに関する健忘などは基本的に状態依存学習と同様のメカニズムとするPutnam1997)の考えは,両立場の懸け橋となることが期待される.」

そして2001年にForrest 先生がこのPutnam 先生の理論を引き継いだ論文を書いたのだ。 

K A Forrest: Toward an etiology of dissociative identity disorder: a neurodevelopmental approach Conscious Cogn 2001 Sep;10(3):259-93.

 

フォレスト先生は、現在のところ、解離に関してもっとも有効な理論は、昨日紹介したパットナム先生の離散的行動モデルであるという。(やっぱりそうか。)そもそも子供の心はこの離散的な状態にあり、そこから統合していくことが出来なかったのが、解離状態であるという。 私たちの体験は状況により大きく異なり、それを結びつけ、統合していくことでつながりを持った体験を、そして「自分」を成立させていく。この理論はすばらしいのだが、それを支える、というか背景になる生物学的なメカニズムは説明されていないという問題がある、とフォレスト先生は言う。実はForrest さんの論文、とても難解である。実は3年以上前にこのブログで取り上げて以下のように書いている。(2018727日)

「話の内容は結局は人間が「自分Me」を集積していって「全体としての自分Global Me に向かう際に、その統合を担っているのが眼窩前頭皮質OFCを含む前頭前野である、という話だ。そしてその機能が侵された場合、人はある体験を統合することが出来なくなる。例えば健全な状況では、ある人Aさんのちょっと違った側面を「同じ人のいくつかの側面」としてとらえ、「結局Aさんはいろいろな側面を持っている」という風にAさんを厚みを持った、多面的な存在として把握するのであるが、それを逆に個別なものとして理解し、相互を別々のものとして理解すると、Aさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識してしまう。そのことを、自己像に対して行なってしまうと、自己がどんどん分裂していく、というのがこのForrest先生のDIDの生成を説明する理論の骨子である。ただし私にはどうもこれはDIDの本質を捉えていないような気がする。この体験では自己像がいくつかに分かれる、という説明にはなっても、心がAに宿ったり、A’に宿ったりという、複数の主体の存在を説明していないように思えるのだ。いったいこの問題に手を付けている理論はあるのだろうかしばらくは情報収集が必要だ。ということでひとまずこの論文を離れよう。」