2021年11月1日月曜日

解離における他者性 31

 Winnicott の解離理論

 Winnicott Fairbairn の同時代人だったが、彼は独自の精神分析理論を展開する中でしばしば解離について語っている。彼は健康な解離とトラウマに起因した解離を分けて考えている。このうち前者は真の自己の素地になるものであり、後者はトラウマ状況における防衛的な操作とされる(Goldman 2012, 339)Winnicott によれば、「解離とは二つ以上の心的過程や心的内容が杵築や記憶やアイデンティティにおいて連合されたり統合されたりしていないことを指す。

 Winnicott は解離された心の部分を、それがトラウマ的な性質を担うために「経験されない not experienced 」という。
「…原初的な苦悩の体験は、それを自我がまとめて現時点の体験に入れない限り、過去形にはならない。・・・別言するならば、患者はまだ体験されていないような過去の詳細を探さなくてはならない。これはその詳細を未来において探すという形を取る。・・・ところが患者が、まだ体験されていないことが過去に起きたという奇妙な種類の真実を受け入れ準備が出来たならば、転移においてこの苦悩が体験される道が開かれる(Winnicott 1974, 105)
 すなわちWinnicott にとっては、統合 integration は体験されていないとしても心の中に存在している、分離され解離されていた心的過程の新生 synthesis なのである。
 ここで私が注目したいのは、Winnicott がどの様に「経験」という用語を使っているかである。彼によれば解離されたものは、転移という文脈で心に体験されるまでは、心を通過しながらも体験されないものなのだ(Winnicott 1974)。以下にみるとおり、解離体験のこのバージョンはSullivan, Stern, Bromberg が継承していくものである。
 ここまでで私たちは Klein, Fairbairn, Winnicott にとっての解離は、それが精神分析に多くの貢献をしたにもかかわらずvan der Hart のいうタイプ1.に属することになる。英国の理論家は解離を防衛機制と見なし、スプリッティングやスキゾイドメカニズムは、苦痛を伴うトラウマ的な体験が生じる際に動員されると考えるのだ。