2021年10月10日日曜日

解離における他者性 9

 交代人格と人として出会わないという歴史的な経緯

 ここに示した解離否認症候群はあくまでも一部の精神科医、とくに精神分析的な治療者に見られる傾向である。そしてもちろん精神医学の世界では、解離性障害をそのものとして理解し、その病態の理解に努めるという動きが存在する。それは197080年代に米国で主として見られた。しかしそこで提唱されたのは、交代人格を一人の人間として遇する、というよりは部分、断片と見なす傾向だったのである。
 


 
ここに示したのは上の段は1800年代から1900年代の初めにかけて活躍された先生方、つまりJ-Mシャルコーやジョゼフ・ブロイアーやピエール・ジャネやサンドール・フェレンチで、下の段は1970年代ごろより解離のエキスパートとして名をはせた先生方である。左側からリチャード・クラフト先生、そしてフランク・パットナム先生、デイビッド・シュピーゲル先生、そして親日家のオノ・バンデアハート先生である。先生、と付けてしまうのは、私が個人的に彼らと出会っているからである。彼らは多重人格やDIDの研究や臨床に多大な貢献をしたが、彼らはまた一種のドグマないしは先入観を作り上げた人々と言ってもいいであろう。
 この中で我が国ではパットナム先生の著書をお読みになった方は多いであろう。いわば多重人格に関しては古典となった本だ。翻訳者も安克昌先生と中井久夫先生という黄金コンビである。パットナム先生は日本にも10年ほど前にいらして講演をなさったことがある。
この本でパットナムは次のように書いている。
「最初に言わなくてはならないのは、どのような交代人格であれ、個別の人間 separate people ではないということだ。個別の人として出会うことは、治療上の深刻な誤りである。」(p. 103)「彼らは自分たちは別々だと強調するが、自分は個別だというこの妄想に乗せられてはならない。the therapist must not buy into this delusion of separateness.もちろん治療者は彼らの個別であるという感覚に共感しなくてはならない。しかし治療者が発するべきメッセージは常に、すべての交代人格たちが集まって一人の人間を構成しているということである all of the alters constitute a whole person. p. 103

F.Putnam (1989) Diagnosis & Treatment of Multiple Personality Disorder. Guilford Press.

 解離性障害についての古典という事で、私たちの多くはこの巨匠の書いた本に一つ一つ異議を唱えることは普通は考えもしないであろう。私も以前にこの一文を読んで引っかかることはなかった。しかし最近読みなおすとこれまで何となく持っていた疑問がより明らかになってきたのだ。もし治療者が発するべきメッセージがパトナムが言うように「すべての交代人格たちが集まって一人の人間を構成しているということである」という事だったらどうだろう?治療者は例えば次のような言葉で患者に語りかけることになる。
 「Bさん、あなたが主人格のAさんとは独立した別個の人間であるとお感じになるのはよくわかりますよ。その感覚自体を否定するつもりはありません。でもあなたは結局はAさんと一緒になることによってしか一人の人間になることはできないのです。」

 これはあたかもBさんに対して妄想を持っている人に向かって語り掛けるのに近い。統合失調症を病む人に「あなたはAさんに狙われているという風に感じるのはよくわかりますよ。その感覚自体は本物と感じられるでしょう。でも結局はそれは貴方が思い込んでいるだけですよ。」と語るようなものだ。そしていみじくもパトナムは言っているのだ。彼らは「自分は個別だという妄想delusion of separateness」を持っていて、それに治療者はのせられてはいけない、と。
 しかしパトナム先生に対して非常に恐れ多い言い方になってしまうが、これほど解離の患者さんを傷つけかねない言葉はあるだろうか?「あなたの話は真剣に聞くに値しません。何しろあなたは単なる『部分』ですから」と言っているのに等しいのではないか。それに解離で起きていることを妄想のレベルで生じていることと混同することからして、極めて問題と言わざるを得ない。
 

私はこの様な文脈でシルバースタインの「僕を探しに
The Missing Piece」という絵本を思い出す。主人公はいつも何かが欠けていると思いながら旅をする。そしてとうとう欠けていた断片に出会ったのに、なぜか一体となってもうまくいかない。そして再び欠けたままの旅を始める。この物語では「みな欠けていていいんだ、人はそんなものだ」、という教訓を含んでいるのだろう。この本に共感した人なら、人に対しても自分に対しても完全であることをあまり求めないようにするだろう。実は欠けている部分を持つことは必ずしもマイナスなことではなく、その人に凹凸や陰影を与えているという事もわかってくるのだ。そしてかけている部分も含めてその人、という見方をするであろう。
 ところがDIDを持っている人の交代人格というだけで、ピースの欠けていることをことさら問題にされ、そのために不完全な人という扱い方をされる。そして次のような理不尽とも思える言い方をされる。「あなたは欠けたピースと一緒になって初めて一人の人間になるのですよ。」しかし問題はDIDの交代人格に会っても、普通の人と何ら変わらないという印象を持つという事だ。という事は、相手がDIDを有する、この人はいわゆる交代人格の一人だ、という事を認識するや否や、ピースが欠けている姿が急に見えるようになり、それを問題にしだすのだ。でもこれはDIDを有する人に対する一種の差別ではないだろうか。というのも差別とはその人がある属性(性別、人種、性的志向、知能、社会的地位その他)を有するというだけでその人を劣った存在と見なすことを言うからだ。相手がDIDを有するだけでその人に欠損があると見なすことは、その意味ではまさに差別という事になる。そしてそれは具体的には次のような形を取る。
 たとえばDIDを有するAさん(の主人格)はとても「いい人」で人から頼まれごとをされると「嫌です」と言えないという特徴を持っているとする。するとその人がDIDであるという事を知るや否や、治療者や周囲の人は次のように考えるはずだ。「人に対して怒りや不満を感じる部分が解離されて別人格になっているので、この人はやはり不完全なのだ。つまり人への怒りや不満を体験できないという欠陥を持っているのだ。」
 通常なら人に対して「嫌です」と言えないという事はその人の「個性」と見なされるであろう。少なくとも「僕を探しに」を読んで共感した人の場合はそのはずである。