2021年10月11日月曜日

解離における他者性 10

 部分的な心などあり得ないという事

 ここで交代人格が部分、断片として扱われるという件に関して、その断片という考え方はそもそも心理学的にも、哲学的にも問題があるという主張を行いたい。なぜなら心というのは常に統一されているからだ、というのがその根拠である。この点の説明の為にいったんは解離の議論を離れることになる。というのもこの心の統一体としての性質は、なにも解離性の交代人格にのみ当てはまるわけではないからだ。その人がDIDを有するかどうかは別として、そもそも「部分的な心」という本来存在しないものを措定すること自体が誤りであるという点について考える必要があるのである。

まず「心」と私が述べるものとは何かが早速問題になるが、ここで難しい哲学的な議論はするつもりはない。私たちは自分が心を持っていることを知っているし、それがどういうものかを漠然とであるが理解している。だから例えば自分の配偶者が心を持っていることを知っている。それはある意思を持ち、それを行使し、一定の同一性を保っている存在である。そしてそれはヤスパースKarl Jaspers (1997/1913)が自我と呼んだものの性質がほぼそれに当てはまることが分かる。彼が自我の定義という形で言葉にしてくれているのだ。

彼が示した自我の性質は以下の4つである。
「能動性の意識」 自分自身が何か行っていると感じられること。
「単一性の意識」 自分が単独の存在であると感じられること。
「同一性の意識」 時を経ても自分は変わらないと感じられること。
「限界性の意識」 自分は他者や外界と区別されていると感じられること。

 もちろん私たちの配偶者だけでなく、子供にも老人にもそれを拡張することができる。まだ物心ついていない幼児も、認知症の症状が出かかっているご老人も、私は心をそこに見出すだろう。そしてそれらの人に心があるという事は、彼らと言葉による、ないしは情緒的なやり取りを実際にしたり、その姿を観察することで行うことで分かる。そしてその人が心を持っていると思う時は大抵ヤスパースの4条件に近いものの存在を感じているはずだ。

さてその際私たちはそこに心があるかないかの二者択一は考えても、部分的に存在するという事はあまり考えないであろう。少なくとも「あの人は心が半分ある」という言い方はしない。多分「心があるか怪しい」とか「時々なくなりかける」という、ある種の強度を想定するのではないか。

例えば一歳児と話をしてまだ言葉が分からず、また発することが出来ないとしたら、もちろん一人前の心とはみなされないだろう。あるいはご老人が長年連れ添った配偶者も子供の顔も認識できないまでに認知症が進んでいるとしたら、同様に心が存在するかが怪しくなるかもしれない。さらには酒に酩酊して前後不覚になり、こちらの言葉も理解できるか怪しくなっている。その時によく用いられるのが、意識の希薄さ、ないし縮小という考え方である。

この心が怪しくなっている状態は、私たちの誰もが自分自身で体験していることなので、それを踏まえた場合によりよく理解されるかもしれない。例えば睡魔に襲われて人から話しかけられてもよく答えられない時、授業や人の話に集中しようとしてもふと意識が薄れてしまう。ちょうど視野がぼやけて輪郭を失いかけるのと同じように意識が混濁するclouding of consciousness という表現がうまくそれを言い表す。そのほか精神薄弱などという表現もある。これらの意識の狭小ないし混濁といった表現においては、その全体性が失われていないことが重要である。居眠りをしていても、あるいは認知症になりかかっていても、いつものAさんらしさという統一性は保たれている。しかしAさんは意識が半分になっている、今三分の一である、という、あたかも意識がいくつかに分割されているという言い方を私たちはしない。それはそれがその状態を言い表すのに適切でないからであろうが、そもそもその様な表現が発想として浮かばないからだろう。そのような表現では、意識が乏しくなって希薄になっても保たれているであろうある種の全体さが失われるからである。  

さて交代人格の場合に部分と呼ぶことがどうして生じたのかは不明だが、おそらくその前提として健全なある種の全体から切り離されたという前提があるからではないか。