部分的な心などあり得ないという事
まず「心」と私が述べるものとは何かが早速問題になるが、ここで難しい哲学的な議論はするつもりはない。私たちは自分が心を持っていることを知っているし、それがどういうものかを漠然とであるが理解している。だから例えば自分の配偶者が心を持っていることを知っている。それはある意思を持ち、それを行使し、一定の同一性を保っている存在である。そしてそれはヤスパースKarl Jaspers (1997/1913)が自我と呼んだものの性質がほぼそれに当てはまることが分かる。彼が自我の定義という形で言葉にしてくれているのだ。
彼が示した自我の性質は以下の4つである。
「能動性の意識」 自分自身が何か行っていると感じられること。
「単一性の意識」 自分が単独の存在であると感じられること。
「同一性の意識」 時を経ても自分は変わらないと感じられること。
「限界性の意識」 自分は他者や外界と区別されていると感じられること。
さてその際私たちはそこに心があるかないかの二者択一は考えても、部分的に存在するという事はあまり考えないであろう。少なくとも「あの人は心が半分ある」という言い方はしない。多分「心があるか怪しい」とか「時々なくなりかける」という、ある種の強度を想定するのではないか。
例えば一歳児と話をしてまだ言葉が分からず、また発することが出来ないとしたら、もちろん一人前の心とはみなされないだろう。あるいはご老人が長年連れ添った配偶者も子供の顔も認識できないまでに認知症が進んでいるとしたら、同様に心が存在するかが怪しくなるかもしれない。さらには酒に酩酊して前後不覚になり、こちらの言葉も理解できるか怪しくなっている。その時によく用いられるのが、意識の希薄さ、ないし縮小という考え方である。
この心が怪しくなっている状態は、私たちの誰もが自分自身で体験していることなので、それを踏まえた場合によりよく理解されるかもしれない。例えば睡魔に襲われて人から話しかけられてもよく答えられない時、授業や人の話に集中しようとしてもふと意識が薄れてしまう。ちょうど視野がぼやけて輪郭を失いかけるのと同じように意識が混濁するclouding of consciousness という表現がうまくそれを言い表す。そのほか精神薄弱などという表現もある。これらの意識の狭小ないし混濁といった表現においては、その全体性が失われていないことが重要である。居眠りをしていても、あるいは認知症になりかかっていても、いつものAさんらしさという統一性は保たれている。しかしAさんは意識が半分になっている、今三分の一である、という、あたかも意識がいくつかに分割されているという言い方を私たちはしない。それはそれがその状態を言い表すのに適切でないからであろうが、そもそもその様な表現が発想として浮かばないからだろう。そのような表現では、意識が乏しくなって希薄になっても保たれているであろうある種の全体さが失われるからである。
さて交代人格の場合に部分と呼ぶことがどうして生じたのかは不明だが、おそらくその前提として健全なある種の全体から切り離されたという前提があるからではないか。