2021年10月29日金曜日

解離における他者性 28

 Bromberg(以下B)についても少し読んでみよう。
 Bがしきりに訴えるのは、私たちの自己selfが非連続的ということだ。彼は Stephen Mitchell (1991) の次のような言葉を引用する。「私たちは異なる他者とかかわることで、私たちの自己の体験は、非連続的となり、 異なる他者には異なる自己が成立する。」「それぞれの関係性が多数の自己組織を含み、そのような関係性が多数ある」127128)つまりはMitchell がそのような多重的な心という考えをすでに持っていたのであり、Bはそれを引き継いでいるといっているのである。Bは私たちが持っている自分は一つ、という感覚自体が危ないという。それは一種の幻想であり、トラウマ的な出来事によりいとも簡単に消えてしまうのだ。そしてそのような時に解離は防衛として機能する。つまり将来危険が来ることが予期されると、解離は早期の警告システムとしての意味を持つようになるという。ちなみにBのこの考えは結局は解離されたものは象徴化されていないもの unsymbolized となり、やはり不完全なもの、病的なものというニュアンスを持つことにある。ここは私の考えとは異なる。
 Bの論文にはいろいろな論者が紹介されているが、なかでもWolff1987)は注目すべきかもしれない。彼は人の心は生まれた時からすでに一つではないという。彼は乳幼児の観察から、自己はいくつかの「行動状態 behavioral states」から始まり、発達的にそれが統合されていく。Kihlstrom によればそれが(またもや)象徴化により結びついて統合されるという。Bによればその象徴化が起きない度合いに応じて解離が強くなる。彼にとっては解離=非象徴化なのだ。
  そうこう読んでいるうちに Wilma Bucci という人の研究も出てきた。この人は正常では象徴化された要素と前象徴化要素とは薄くつながっているが、病的な場合ではそうではない。(Bucchi,2001, p68). それはそうだろう。そして彼女はこともなげにこう言うという。「精神分析的な治療とは、解離されたスキームを統合することでしょ?」「そのためには前象徴化の身体的な体験を治療において再活性させることだ。」うーん、違うんだなあ。Bはそこに脳科学者Joseph LeDoux (2002)の研究を引き合いにだす。これは楽しみだ!
 ところがそこで書かれているのは、心は常に同期化しているとは限らない、だからバラバラな内容を含んでいるというのだ。しかしそれはあることの理解の瞬間の同期化の事実をある程度認めていることになるのではないか。そして愛着を通じて自己の継続性が形成されることへの障害がトラウマである、というのだ。そしてこれが例の「混乱型愛着disorganized/disoriented attachment」の議論を結びつくというわけだ。うん、ここにつなげたい気持ちは、それなりによくわかる。

この議論のもととなるのは例のPutnam 先生の有名な「離散的行動パターン」の概念と結びつくという。それは次のような感じで概念化されているらしい。「あまり連結されていない自己状態が、発達に従って幻想として成立する。The experience of being a unitary self is an acquired, developmentally adaptive illusion.ちょっと待った!これでは最初は部分だった自己が纏まって一つになるというパラダイムではないか!これは見逃せない。私は心は生まれたときから一つだと思う。しかしそれは小さく、狭いのだ。赤ちゃんの頃の自己はまとまってはいてもボーっとしているはずだ。ちょうどワンちゃんの自己がかなりプリミティブであるのと同じに。でもそれなりにまとまっているはずだ。

ということでBの議論を追っていくうちに、私がどこが不満なのかがよく分かった。
 もう少しBの主張を続けよう。Bの論文のp.642あたり。正常な状態では自己はいくつかの部分に分かれているが、だいたいは緩くつながっている。しかし特殊な状況では一つが飛び出して異物のようになるというのだ。つまり正常さは、統合により表されるという前提がここにあるのだ。そしてこんなことも言っている。病的な解離は、逃亡できない状況が起きる前の逃亡として成立して、独自の役割を果たしだすというのだ。それが個別の交代人格がどうしてあたかも独り歩きをするかを説明しているというわけだ。どうも納得いかないが…。
 以上が今回の書き直しでBの論文からピックアップした部分だが、やはり心は一つが正常、それが防衛的にいくつかにばらばらに分かれているという考え方は変わらない。そもそも異なる交代人格にどのようなアプローチをすべきかなどについての議論がないのだ。