ところでSは私たちが陥っている古い考え方について言及する。私たちは現実を体験するとき、すでに形を成したものをそのまま取り入れると思う傾向にある。つまり実は意味は私たちが構築 construct している、という構築モデルに基づく考え方をなかなか持てないという。そしてその結果として無意識にはすでに形あるものfully formed が詰まっていると考えているという。それらは一次過程に従い、結び付けられていない unbound ために心全体に広がる可能性を持つという。それを比喩的に表すと水の中にビーチボールを沈めることだという。(私も「浮沈子モデル」を提示したことがある。)それは抑えていない限りは上に登って来ようとする。しかしそのビーチボールはすでにすっかり形が出来上がっていて、あとはそれが上がってくるのを待つだけということになる。Bはこのような考え方はもう一つの暗黙の前提を生んでいるという。それは真実は一つだけしかなく、それを客観的に証明することができる、という前提だ。これをSは「対応物観 correspondence view」と呼ぶのだ。すなわちこれはフロイトの抑圧モデルの申し子であるというのである。
さてSは精神分析における以上の前提はナンセンスであるという。そして真実は客観的な観察により得られるとは考えられず、知るとか理解するということは構築 construct されることだ、という主張を繰り返すのだ。そしてここからがBの未構成の体験 unformulated
experience の議論になる。(実はここからがややこしくてわかりづらくなる。)このモデルでは、知覚はあまり構成されていない状態から構成されるのだ。(紛らわしいので construct = 構築、formulate = 構成、と訳しておく。) この考えでは無意識は「潜在的な体験 potential experience」により成り立つ。つまりそれは明白な、知ることのできる形をとっていないのだ。ところでBは以前は、意味の構成は言語においてのみ生じる、と考えていたという。これは実はフロイトの考えに一致しているといえるであろう。つまり言語的な解釈こそが究極の介入であるという見方に通じる。Sはその後未構成の体験についての理論に、「未構成な非言語的な意味 unformulated nonverbal meaning」を付け加えることになったという。それにより未構成の体験は二つになる。一つはこれまでSが考えていた未構成の言語的な意味と、未構成の非言語的な意味である。それは把握realize されても言葉にならないままで体験を構成するという。例として性的な体験についての恐れのある男性を考える。彼は性的なかかわりの際に不安になるが言葉にできない。それが未構成な非言語的意味となる。ここはややこしいので逐語訳してみる。「言語は感覚体験のニュアンスを象徴化するには不十分なので、
患者は未構成の性的体験の非言語的な意味のなかで realize
できた部分だけ反省することができる。
Because language is not an adequate
means of symbolizing the nuances of sensory experience, the patient can only
reflect on a portion of even that part of his unformulated sexual experience
that has been realized as non-verbal meaning.」
うーん、今一つわからない。逐語訳までしているのに。To realize, to reflect, be aware, to grasp などの使われているニュアンスがつかめないから訳が分からないのだ。ただいくつかの確かなことは確認できた。Sは「未構成な意味=構成されていない意味」として、言語的、非言語的に分類すること。言語的に把握することを articulate, 非言語的に把握することを realize という。これは意識化する、と言い表されるだろう。そして多くの非言語的な意味は articulate されず、そのために反省 reflect on ( = articulate つまり言語化されて反省されるという意味で用いられている)されない。ただし非言語的な意味のあるものは、いったんrealize されると、言語的で反省的な分節化されたものとなり、明確で反省的な気づきになりうるともいう。