2021年10月26日火曜日

解離における他者性 25

 van der Hart のタイプ1、タイプ2の分類

 Freud が苦心して守り続けた立場、すなわち心は常に一つであるというとらえ方は、その後も精神分析において受け継がれていく。しかし精神分析外では、多重人格や意識の多重性は特にタブーとなることなく論じられていった。一人の人間がいくつかの心をその脳に宿すという事態がDIDの場合に生じるという事は否定のしようがないことである。それは人が心を一つしか有しないという Freud が持っていたような前提を外し、臨床的な現実をそのまま受け入れれば自然と至る結論であろう。この様にDIDや重篤な解離症状を認めるか否かについて、精神医学と精神分析学の間に乖離が生じて行ったのである。
 この問題に関して解離性障害についての第一人者といえるOno van der Hartは、次のように述べている (van der Hart, 2009)
 「精神分析においては解離は防衛機制と考えられ、自我のスプリッティングを主として扱うのに対して、精神分析外では、次の二種類の用いられ方をする。
(1). 統合されていた機能がストレスにより一時的に停止した状態。
(2). 同時に生じる、別個の、あるいはスプリットオフされた精神的な組織、パーソナリティ、ないしは 意識の流れ。
  van der Hartのこの分類に沿って両者をそれぞれ解離のタイプ1、およびタイプ2.と呼ぶことにしよう。 タイプ1はFreud 以来の精神分析的な考え方と同様という事になる。精神分析の外でもそのような考え方を持つ人はいても不思議ではない。それに比べて(タイプ2は一人の人間に複数の意識や人格を認める立場である。ここでの「別個の精神的な組織」とは、過去のある時点で、それも多くはトラウマ的な出来事により形成された、知覚的で心理的な要素であり、この精神的な組織は通常その人が持っている意識の外で働く。van der Hart によれば、自発的に生じる人格交代以外では、そこにアクセスできるのは催眠や自動書記によってであるとされる。
 このvan der Hartの主張はおおむね妥当なものと言えるが、実は精神分析の歴史では、1893年のBreuer,Freud以外で、この2)に属する解離について論じた分析家がいたと考えられる。それがSandor Ferencziであり、彼の主要論文である「大人と子どもの間の言葉の混乱 ― やさしさの言葉と情熱の言葉(1949/1933)」に描かれた解離現象である。この論文には解離状態においてあたかも新たな心が生み出され、自律的な機能を有することへのフェレンチ自身の驚きが描かれている。