2021年10月25日月曜日

解離における他者性 24

  この論文は実は Ferenczi がただ解離の病理について論じているだけではないことは、言葉の混乱の文面を追うとわかる。いくつかの文章を引用しよう(森訳「最後の貢献」より)。

「分析家がどの程度分析されているかというますます重要になってきている問題にこれは関係します。神経症の徹底的な分析には大抵何年も要するのに、通常の教育分析は多くの場合、数か月からせいぜい一年半しか続かないことを忘れてはなりません。そうなれば、患者たちが分析家よりよほどしっかり分析を受けている、というとんでもない事態がいずれ生まれるでしょう。」(p.141)「患者が抑圧している批判は、その大部分が職業的偽善と呼ぶことのできるものに関係しています。」(p.141)「どうしてこのような事態が起こるのでしょう。医者と患者の関係の中に、はっきりと語られないもの、不誠実なものが何かある時、それを包み隠さず語ることがいわば病者の舌を溶かすのです。」(p.142

結局ここでは Freud の唱えた精神分析理論の核心にあるある種の問題を同時に指摘していることになる。そしてそれをFerenczi は「(精神分析家の持つ)職業的な自己欺瞞」と言い表しているのだ。これは少なくともその当時行われていた精神分析自体を批判し、それを乗り越えるべきだというメッセージを含んでいて、それ自体がかなり批判的であることが分かる。したがってそれに対する Freud の以下のような反発もよく分かるのである。

「君は危険な領域に足を踏み入れている。精神分析の伝統的習慣と技法から根本的に離れようとしている。患者の求めや願望にそれほど屈するのは、それがどんなに真摯なものであったとしても、分析家への依存を高めてしまう。そういう依存は、分析家側の情緒的撤退によってしか打ち破ることが出来ない。」(往復書簡3 p.443. フェレンチがイゼット・デ・フォレストへの手紙に記したフロイトの言葉から再現したもの。8月29日手紙)(森茂起「フェレンチの時代」p.198

Ferenczi が主張していたこと、そしてFreud を苛立たせたことの骨子を、私自身が言い換えてみたいと思う。

「分析家はいつも高みの見物をするだけで、患者のレベルに降りてきてその世界を共有し、例えば子供の人格にはそれとして接するべきなのだ。子供の人格になっている人に対して知的な解釈(「教育的で冷静な態度」などをしても全く意味がないのだ。もっと情緒レベルで接することをしなくてはならない。」そう、この主張は交代人格をそれとして扱うべし、という主張とほとんど同じといっていい。そしてそれは絶望的なまでに従来の精神分析のモデルとの齟齬を生じさせるのである