2021年10月23日土曜日

解離における他者性 22

 フェレンチだけは違っていた

 これまでの記述で私が示したのは、Freud が先輩 Breue rの説を否定して独自の精神分析理論を作り上げていった過程である。Breuer は、トラウマにより新しい心が生まれるという極めて不思議な現象が起きることを見出し、それを「類催眠状態」(解離)と表現したが、Freud がこれを受け入れることを拒否したのである。そして精神分析の歴史においては基本的にはFreud のこの立場は継承されていったのである。
 ただしその例外とすべき人がいた。それが Freud の直弟子だったSandor Ferenczi である。彼は結果的には解離という病理を受け入れ、Breuer のような考えを持つに至ったである。ただしFerenczi は最初からBreuer の説を取り入れていたわけではない。Freud のもとで精神分析を学び始めた Ferenczi は、最初はフロイディアンだったのだ。Freud より17歳年下の彼は1900年代の初めに Freud の愛弟子となり、その理論を踏襲することから始めた。彼は最初はFreudの気に入る議論をして喜んでもらえることを心がけた。その当時Freud には Jung という筆頭となるべき後継者がいたが、彼は最初から Freud のリビドー論には懐疑的であった。そのことをFreud に出会った当初から直言していたのである。Freudにとっては自分に耳の痛い助言をしてくるJung よりは、自分の理論をまっすぐに吸収してくれる Ferenczi を可愛がったのも無理はない。Ferenczi はまた Jung が精神分析運動を離れる動きに加担したとされる。(森、p102)しかしその Ferenczi がやがてはFreud に弓を引く形で袂を分かつことになったことはとても興味深い。
 最初はフロイディアンであったはずの Ferenczi にとっての転機となったのは、1914年より第一次大戦により傷ついた兵士たちの治療を行う経験であった。戦場から送られてくるトラウマを負った患者を扱うことで、彼に新たな考えが芽生えていった。それはそれらの患者が示す多彩な解離症状だったのである。その結果として Ferenczi は、Breuer が観察したことと同様の臨床的な現実に直面し、結果的に Breuer と同じ地点に立ったのである。