この様な考え方をヒントにフロイトの思考の足跡を追ってみよう。話はそのようなポリサイキズム的な考えを有していたブロイアーとその後輩フロイトとの関係にさかのぼる。ウィーン大学のエルンスト・ブリュッケ教授のもとで神経解剖学の修業をしていたフロイトは、1880年代になり、開業をするにあたりブロイアーから様々な影響を受けた(Aron, 1996)。先輩医師であるブロイアーは、アンナOという患者に起きている興味深い現象を目の当たりにし、複数の人格が一人の中に存在するとしか考えられないという結論に達した。それがブロイアーの類催眠ヒステリーの概念であった。類催眠状態とは今の言葉で言えば解離状態のことである。フロイトはブロイアーのサポートを得つつヒステリーの患者の治療にあたり、それをなるべく早く公表することを願っていた。というのもフロイトはパリのピエール・ジャネがその成果を発表することで先を越されることを懸念していたからである。そしてブロイアーとフロイトが共同で執筆したのが、1893年に発行された「暫定報告」であり、それは二人の共著となる1895年の「ヒステリー研究」の最初の章として掲載されている。を書いた時、二人の間にはすでに大きな意見の食い違いを見せていたのだ。なぜなら「ヒステリー研究」における「暫定報告」では当然二人の間に一致していたはずの意見は、この書の残りの部分で、それぞれフロイトとブロイアーが個別に書いた章ですでに分かれているからだ。ここでFreud が実際に行ったのは何かといえば、「暫定報告」でBreuer と共に報告した「類催眠ヒステリー」について、実は自分はそれを見たことがないので、その存在は怪しいと述べているのである。これは科学者としては由々しき行動といえなくもない。たとえて言うならば、二人の学者が「新薬A,Bを発見しました」と連名で論文を発表したのちに、一人が「実は自分自身はBを発見していない」と撤回するようなものである。しかもそれを一冊の本の前半と後半で同時に行っているという何とも紛らわしいことが行われたのだ。
「私は自身の経験において真性の類催眠ヒステリーつまりは多重人格に出会ったことがない。私が治療を開始すると、その人は多重人格から防衛ヒステリーヘと診断を変更するしかなかったのだ。だが〔本来の意識状態と〕明らかに切り離された意識状態において成立している人格と、一度も関わりを持たなかった、とは言わない。私の扱った症例においても、ときにそうしたことは起きた。しかし、私はその場合にも、いわゆる類催眠状態において切り離されている意識は、以前から防衛により分離していた心的〔表象〕集合体が、その状態で効力を発揮していたという事情があるからだ、と証明できたのであった。」
フロイトが具体的にこう述べているのは、「ヒステリー研究」の第4章「ヒステリーの精神療法」で Freud が担当した章となっている。