2021年10月15日金曜日

解離における他者性 14

  私がこのケースを提示したのは、次のようなことを示したかったからである。このケースではAさんとA’さんという二人の人格と関わったことになる。そしてその時の彼女たちの差し迫った状況により、私はそれらのどちらかを選択して支持する必要があった。というよりはそうせざるを得ないような状況に置かれたのである。そしてその話を聞き、その手助けをしたのは言うまでもなくA’さんの方である。少なくとも彼女が置かれた状況では、母親とかかわりを持つことを断固拒否し、結婚をして家庭を持つという意思を示しているA’さんの方が圧倒的に強く、その意向を重んじない限りは彼女の本来の生きる道を奪うことになったからである。しかしもちろんA’は婚約者の前で出ている人格である。彼女の脳内にはAさんも存在する。

(プライバシー保護のために中略)

 ただしもちろんAさんとA’さんのどちらが将来生きていくべきかを問われたとしたら、私はやはりA’さんの方に賭けたい。しかしいずれにせよAさんとA’さんのどちらが「本物」であるという議論はここでは成り立たないのである。

この様な私の選択は、精神分析で目指すであろうことと反対のことであった。なぜなら精神分析においては、葛藤を解決するという方向が当然望まれるからである。それは弁証法で言えば、正→半→合を目指すことになる。しかし私はA’さんがこの事態を切り抜けていくのを見守るのに任せたのだ。

ただしここでもう一言必要かもしれない。AさんとA’さんはある意味で平等であり、両者は葛藤の両極のように扱うべきであったのだろうか?私は実はそうは思わない。なぜならA’さんの方はトラウマの結果成立したものだからである。もちろん彼女の幼少期がことごとくトラウマ的であったというつもりはない。しかしその幼少期にAさんとA’さんは存在していて、本来なら後者が彼女たちを代表すべきものであったにもかかわらず、Aさんが外側に成立していた。

(以下略)