2021年10月13日水曜日

解離における他者性 12

 意識は一つの統合体である

意識とはあるクオリアの伴った体験を持つものと私は定義したいが、その際意識は統合されている。つまり断片的な意識、等というものはない。ここら辺はEdelman Tononi The Universe of Consciousness. の助けを借りよう。
Charles Sherrington: The Integrative Action of the Nervous System. Yale University Press, 1906.
 100年以上も前にチャールズ・シェリングトンは次のようなことを言っている。「自己は統一であるthe self is a unity」と。ウィリアム・ジェームズも言っている。「意識の最大の特徴は、単一で固有であるunitary and privateという事だ、と。ある意識を持った個人と関わる時は、それは分解不可能な統一体である。体験を持つ個人individual とはその後そのものが分ける divide ことが出来ない。もし意識活動を部分に分けるとしたら、意識的な体験はその総和以上の新たなものなのである。したがって意識活動を純粋な意味で分割することはできない。この様な考え方は近年ではBernard Baars らによるGlobal workspace theory として提示されている。
 ただし無意識部分での体験を言い出すとこの限りではなくなる。そして私たちの意識的な体験が多くの無意識部分に支えられている以上、この意識的な体験に関わる部分とは何かについて論じておく必要がある。
 例えば目の前の一輪の赤いバラを「バラだ!」と認識した時、それは一つの体験であり、その際の意識は統一されている。しかし目の前のバラの意識的な体験はたくさんの無意識部分により支えられている。例えばそれが一輪であること、赤い色をしていること、それが(写真や映像ではなく)そこに実在していることなどの認識はその「バラだ!」という体験にとって必要ではあるが、ここの要素は意識には登ってこない。なぜなら意識は「バラだ!」という体験で忙しく、手いっぱいだからだ。あるいはそれらが意識されるとしても、それらをつなぎ合わせても「バラだ!」という体験を構成しない。「バラだ!」という体験はそれらの総和以上の何かであり、それは統一されたものなのである。そこである意識的な体験が部分であるためには、それは「無意識的」か、「非意識的」でなくてはならない。逆に言えば、意識的な体験は必ず統一なのである。
 以上の論述により主張したいのは、そもそもある種の体験を持つことができる意識に「部分的な意識」は存在しない。その様なものを措定すること自体が誤謬なのである。あるとすれば例えば狭い、薄い、しかしそれなりに全体性を保っている意識なのである。そして少なくとも私たちが臨床的に出会うDIDの患者さんの交代人格はそうではない。はるかに立派で形の整った意識であり、独自の体験を有しているのである。
 ではどうして過去の碩学たちが部分、等と言い出したのであろうか? それは私には明らかなことのように思える。それはDID
は統合されることで治癒するという固定観念なのだ。すべてはそこから来ている可能性がある。統合が治療である以上、今の存在は部分と見なすしかない。しかしそれはジャネの行った第二原則、すなわち意識はそこから何もかけたりしないという原則に反する考え方なのである