2021年9月18日土曜日

それでいいのか、アメリカ人 19

 ガイジンのいないアメリカ

 米国で暮らしていて常識とは異なることがよく体験される。1987年私はニューヨークのマンハッタンを生まれて初めて訪れた。「ここがニューヨークか!」私はパリに初めて降り立った時ほどではないが、感動を覚えた。私は完全なお上りさんだが決してそうは見せないようにと気を引き締めて街を歩いてみた。自分が身につけているものがいつ掠め取られないかに注意をしながら、周囲に警戒の目を向けながら歩いていたのだ。すると変なことが起きた。私に道を聞いてくる通行人がいたのである。「え?ガイコク人に道を尋ねるってどんな神経をしているんだろう?」もちろん向こうに私が英語のよく分からない外国人であるという事が分かるわけはない。日本にいる時のように、「この人はガイジンだから道を聞いてもわからないだろう」などという事を人は考えないのだ。そのうち私は徐々に理解するようになった。この国にガイコク人なんていないんだ。ある意味ではみんな外国人感覚なんだ…・・。
 この時私はパリで一年間かなりつらい時を過ごした後だった。異邦人とはどのように扱われ、どのような目を向けられるかをかなり直接的に味合わされた。パリ人にとって、アジア人を含めた有色人種は差別の対象になる。何人、という事よりは有色人種であるという事だけで、である。日本人の留学生の仲間には、「このベトナム人!」とつばを吐きかけられたと悔しそうに語った人もいたが、これは日本人なのにベトナム人と間違えられた、という様な問題ではない。日本人もベトナム人もどちらも有色人種で、差別の対象なのである。
 私がこのことを知ったのは、パリからニューヨークのラガーディア空港に降り立った時に、不思議な空気を感じた時である。「あれ、彼らは自分を普通に見てくれているんだ。」 私はパリでの一年を経験して、アメリカでも同じような体験をするのではないかと心配していたので、一安心した。この国にはしばらくいてもさほどシンドイ思いをしなくて済みそうだ…・・」
 そう、一言で言えばアメリカ人は皆ある意味でよそ者であり、ガイジンであり、だから人をガイジンと見なす、という習慣がそもそもない。白人だって1620年にイギリスからメイフラワーで訪れたガイジンの生き残りである。この感覚を知った時私はアメリカの長期滞在の心の準備が出来たのである。
 ところで外国人は英語で foreigner だが、アメリカで暮らしていて、誰が foreigner か、自分はforeigner か否か、という議論があまり成立しない。この章の題を「外人のいないアメリカ」としたが、まさにその通りなのである。よほどアメリカの片田舎の人の流れが滞っている町でもない限り、出会う人は皆姿かたちが違う。髪の色も皮膚の色も、体格も違う。日本なら出会う人は大抵日本人である。するとこんな特徴がある、あんな特徴がある、関西弁を話す人だな、等と細かい点に基づきさらに識別する。そして日本人というカテゴリーに属さない人は、かなり乱暴に「外人」として括る。ところがアメリカ人は皆異なるから、細かい識別はむしろしなくなる。みなバラバラなのだ。すると例えば人種、年齢と言った括りをする。するとガイジンかどうか、という識別はあまり意味を持たなくなるのだ。
 アメリカを訪れる日本人はこのことを知っておくと損はないであろう。アメリカではそれぞれが異なることが前提であり、もう少し言うとそれぞれが異なってよく、外見で差別はしなく、お互いに平等に遇するという決まりを共有しているという事が前提となる。あとは基本的には英語でコミュニケーションをするという事か。そしてもう一つは表現されないものは存在しないものとして扱われるという事だろうか。逆に言えばこれらの共通認識を持っていれば、アメリカに行ったらアメリカ人になるのである。逆にこれらの認識がなく、アメリカにいる人は何て呼ばれるのだろうか? エトランゼ、stranger 変わった人、という事になるのだろう。そしてアメリカと相当異なる文化的な背景を背負った日本人は、アメリカの世界に入ってまずはストレンジャーとして存在するのではないか。ちょうどニューヨークの街で道を聞かれて当惑した私の状態なのである。