2021年9月17日金曜日

それでいいのか、アメリカ人 18

 英語はタメの世界 ②

 英語について書いていくと、必然的に日本語の話にもなる。私はつくづく両方の世界を知っていてよかったと思う。さもないと自分の体験を相対的にみることが出来ないからだ。アメリカ人の単純さ、英語の単純さを考えることは同時に日本語のややこしさ、複雑さを知ることになる。
 2004年に帰国した時に、やはり私はどこかおかしかったのだろうと思う。その頃初診であった患者さんは今でもいらしているが、その頃の私は言葉が少しヘンだったという。そんなはずはない。家族とは日本語で話していたのだから。でも傍目にはやはりそうだったらしい。そしてそれが証拠に、その頃は日本人同士のお互いの呼び方も私には違和感ばかりであった。
 その頃私が音頭を取って作った研究グループが今でも続いているが、私はそこでお互いに「~さん」と呼ぶことを提案した。ため口で語り合えるような関係がいいだろうと思ったからだ。これは特に問題なく受け入れられた・・・・かのように見えたが、eメールの交換の時点で途端にうまくいかなくなった。会で会う時は通常「さん」付けでお互いに呼び合っている間柄なのに、メールを交換するときはやはり「~様」、ないしは「~さま」、となってしまう。最初は私も言い出した手前、「~さん」と返していたが、やはり私も違和感を覚えだした。私は研究会では一番年上だからメンバーに「~さん」と呼ぶことにさほど抵抗がなくても、メンバーにとっては年上の私は「~先生」となる。すると一人だけ私が彼らに「~さん」とメールで呼びかけるのは、とてもゴーマンな感じがするではないか。現在私がメールで「~さん」と呼びかけるのは親しいバイジーさんや大学での学生さんである。
 このように考えると、米国で皆がファースネームで呼び合い、メールを出し合うのは驚くべきことのように思える。よくぞそのような習慣が成立したものだ。しかもファーストネームで呼ばないと、よそよそしく、ある意味で失礼というニュアンスすらあるようだ。「みんなそうしているのに、なぜあなただけそうしないんだ?」となってしまう。このファーストネームで呼び合うという習慣こそが、欧米社会での偉大なるequalizer という気がする。

しかしそんなアメリカで、ラストネームによる呼び方に決まっているような関係性がある。それは博士号を取得した人に対する呼び方であり(これも何回か書いたことだが)心理士のリズは博士号が授与された次の日から「ドクター・サマービル」などと呼ばれるようになる。(ちなみに同じドクター持ちだと、その間ではファーストネームで呼び合うことになる。)
 私が特に面白いと感じたのは、精神科の州立病院の小児病棟に配属されていたの体験であり、そこではスタッフはみなミスター、ミズ付きで呼ばれていた。しかしそれだけではない。子供たちもみなミスター、ミス付きだった!! 私がいた州立病院だけの習慣かも知れないが、お互いに敬意をこめて、患者とスタッフはみな、ラストネームで呼び合っていたのである。
 しかしそれにしても・・・・・。少なくとも日本ではよほど親しい仲でもなければ、ファーストネームで呼び合うことなどあり得ないことを考えると、とんでもない文化差を感じる。私が両国の文化差を一番痛切に感じるときである。ただしこれは文化差、というよりは言語の差だろうか?私は日本滞在が長く、日本語が流ちょうな人と会話をすることがあるが、例えば米国育ちのA先生とは、日本語で話す時は「A先生」と呼ぶが、英語になると、「ビル」などと呼ぶことになる。いったいどうなっているんだろう?