2021年9月15日水曜日

それでいいのか、アメリカ人 16

 アメリカ人の鈍感力 2

 アメリカ人の単純さと鈍感力の続きの話である。アメリカ人とのコミュニケーションで拍子抜けすることがある。それは一つは前回にも書いた、贈り物の話が関係している。アメリカ人にモノを送るとき、その受け取り方に躊躇が感じられない。それは例えば誉め言葉にしてもいえる。「それって素敵だね」に対して「サンキュー」というシンプルさと同じである。言われて「アレッ?」と拍子抜ける単純さがある。
 もちろんその単純さには約束事、というニュアンスもある。贈り物をされたら、まずはサンキュー。というよりはこちらに多少なりとも引け目が生じるような場合は、とりあえず「有難う」といってしまうというところがある。しかしいったんそれが約束事として決められると、もうそれ以上考えないということにより結局は本当に「単純」な頭の働かせ方しかしなくなることがあるだろう。
 贈り物をする、ということは実は複雑な作業だ。それは例えばあいさつの葉書一枚にしてもいえることだ。なぜなら少なくとも日本人の常識としては、それに対する返事、返礼をする必要性が付いて回るからだ。贈り物をするということは、その人がその商品をどこかでお金を出して購入していることを意味する。それは金銭、時間、あるいは手間といった相手の負担を伴っているのだ。すると貰う側は、それを感じ取る敏感さがあるとしたら、それに対して申し訳ない、後ろめたいといった感情が湧くのはある意味では当然なはずだ。そして贈り物をした側は、それに対するある種の慰労を求めているだろう。そしてそれはもらった側としては、単純な言葉での慰労では済まないかもしれない。だから「スミマセン(済みません)」となる。すると今度は送った側は「いやいや、ほんのツマラナイものです。お口汚しかもしれませんが…」などとなり、一種の謝罪の応酬が始まる。日本人の贈り物はこのような「合わせ鏡」の構造を基本としているのだ。すると「サンキュー」で終わらせられることは拍子抜けして、極端な場合はいらだちさえ覚えるかもしれないのだ。
 さて私はこのアメリカ人の、というよりは英語の持つ単純さは嫌いではない。というのは合わせ鏡は面倒くさいからだ。それに「差し上げます」「サンキュー」にはこの上ない単純さと同時に、贈り物の原点が込められていると思うからだ。私たちがお歳暮やお中元のような儀礼的な形ではなく、人にモノをプレゼントするとき、一番期待するのは相手の喜ぶ顔である。カミさんなどの話では、デパートでいろいろな商品を見て歩くと「あ、これ○○さんにあげたいな」と思うことがしばしばあるという。品物を見ると、たとえ自分自身の好みではなくとも、誰かの顔が浮かぶという。これは素敵なことではないか。純粋な愛他性というよりは自己満足の混ざったものではあるが、人の心の純粋さを示しているような気がする。そしてそれを購入して贈るとき、おそらくそれに対する返礼をされることは全く期待していない。というよりは相手が「あ、これに対するお礼をいつかしなきゃ」という一種の義務感を感じるとしたら、それはむしろ残念なことだろう。そしてその贈り物の行為が成功裏に完結するのは、贈られた人にとってドンピシャの商品であり、「こんなのが欲しかったの!」という一言なのだ。もちろんその人がその感謝の気持ちを持ち続けて、同じような行為を相手に自然に返したくなるとしたら、それはおそらく一つの理想だろうが。とすると、ホラ、やはり「サンキュー」というアメリカ人の反応は正解なのだ。しかしやたらといわれると「何だかなぁ」、と思うが。
 ということで私は贈り物に伴う「サンキュー」という反応を肯定する。しかしただし一つ厄介なことがあり、それは贈り物はその場で開封するという習慣が伴うからだ。贈り物をもらうと、人はその包み紙をあけ、中のものを見て「サンキュー」となる。それはそうだ。何をもらったかを確認しないで「サンキュー」というわけにはいかないからだ。そして「サンキュー」には「素敵ねI like it!」という言葉がふつう続くので、余計中身の確認は必要となるのだ。しかしこれも面倒くさい。あげた方としては「うちでゆっくり開けてね」と思ってしまう。本当に「ツマラナイもの」と思われたとしたら、それを目の当たりにしたくないではないか。それに贈り物って、包まれているときの方が数倍魅力的ではないか。ところがこの開けるという単刀直入な行為はそれを無にしてしまうような気がする。その意味での単純さは、やはりいただけない。