2021年9月14日火曜日

それでいいのか、アメリカ人 15

 アメリカ人の鈍感力 1

 アメリカ人も人目を気にする、という私の主張の趣旨はある程度分かってもらえたかもしれない。そのうえで私がぜひ書いておきたいのがアメリカ人の鈍感力という問題である。
 ここで「鈍感力」と書くのは一種のリップサービスになっている。要するに「鈍感だ」ということである。この問題について書くのは勇気のいることではあるが、やはり私がアメリカで17年間考えた結果得られた重要な結論の一つなのである。

 アメリカ生活を始めてまず気が付くのは、「おいしいものがない」ということだろうか。アメリカではもちろん食品産業は盛んである。しかしどこに行っても同じ味がするという感覚がある。やたらとボリュームはあるのに味が濃いだけでおいしくない。アメリカで何か食事をとろうとすると、結局はフランチャイズのレストランに入ることになる。どこの都市を訪れても、空港にも、マクドナルドやケンタッキー・フライド・チキンやタコベルや・・・・といった見飽きたフランチャイズの店が並ぶ。尋ねた地元でお店を出している「~屋」などという店は本当に少ない。すぐに淘汰されてしまうのだろうか。(もちろん有名レストランなどは別である。)
 アメリカ人は結局それらのファーストフードの店の一つに入り、同じような味のものを食べて満足する。日本に住む私たちのように、「あそこのお店ではあのメニューがあり、こんなにおいしい」という体験を持てないのがアメリカ社会である。
 あるいはコーヒー一つとっても味の薄いただの茶色い飲み物と思いたくなるようなものしか飲めない。またスナック菓子についても同じことが言える。これでいいのか、と思うようなデザインやどぎつい色のお菓子がスーパーの棚に大袋で並んでいる。すべてが画一的でバラエティーに欠ける。
 書き出すときりがなくなってくる。文房具もそうだ。可愛い、特徴のあるメモ帳とか付箋とか、すべすべの書き味のボールペンなど見当たらない。彼らは書き心地ということを考えていないのかと思うような筆記用具しか見つからない。どうして、何もかもこんなに心のこもっていない、使い心地の悪いものしかないのだろう?と常に思っていた。だから17年の間、年に12回学会などで日本に帰ってくると、立ち寄るごく普通のコンビニはそれこそお花畑に見えたくらいである。
 そして最終的に至ったのは、食べ物に関しては「彼らアメリカ人は味覚が分化していないのだ」というミもフタもない結論であった。しかしアメリカで売られている商品全般について言えることだとしたら、彼らは触覚も、嗅覚も、視覚もすべて鈍感だからではないかという結論に至らざるを得なくなる。そして冒頭に述べた「鈍感力」の話になってくるのだ。
 それにしてもひどい話ではないか。アメリカ人はそれほどことごとく鈍感なのか? だったら人の心の機微は?審美眼は?それらについてことごとく日本人が優れているということなどあり得るのだろうか?
 おそらくある側面についてはそれが真実なのであろう。だから日本で私たちが普通においしいと思っている食べ物が海外に出て行ってやたらと受け入れられる。寿司にしても天婦羅にしても、ラーメンにしても、日本の味がこれほどもてはやされるということはアメリカ人たちが「本当に味のする」食品を与えられて、舌が肥えてきたということなのだろう。
 さてこのことと「アメリカ人も人目を気にする」ということとどう結びつくのだろうか?それはこういうことだ。彼らは人からどう見られているかをもちろん気にする。しかしその精度とか微妙なニュアンスについてはあまり問題にしていない可能性があるのである。例えば「人目を気にする」にはいろいろなレベルがある。「あの人はどう思っているだろうか?」は、実はその階層のみにとどまらない。様々なメタレベルが存在する。「あの人は私があの人を見ていることを意識しているだろうか?」とか「あの人は私があの人について思っていることをどの程度察知していて、そのうえでどう思っているのだろうか?」「あの人は私があの人が私のことをどう見ていてそのうえでどう感じているかを私が気にしているということに気が付いているだろうか?…」 ひととの関係性は合わせ鏡 infinity mirror のようなところがある。そのどの層にまで分け入るかについては、おそらく日本人とアメリカでかなりの差がある気がする。アメリカ人なら最初の12層以上は踏み込まないという感じがる。(しかしここまで言っていいのだろうか?)