アメリカ人はシャイである
その中でもアメリカ人は果たしてシャイなのか、というのは比較的大きな関心を持っていたテーマである。日本でガイジンを興味津々で観察していた私にとって、彼らは同じ人とは思えないような積極性、勇気、自己主張の強さを持っている存在と感じていた。私が精神科医になった1980年代は、まだ対人恐怖は日本人に特有の病気であるという考え方が主流であった。「菊と刀」を表し、日本文化を「恥の文化」ととらえた米国の社会学者ルース・ベネディクトの理論は多くの日本人にとってなじみ深いであろう。自分の行動を決める際に罪の意識を基本に置くか、恥の意識を基本に置くかという区別に基づいた彼女の理論は比較的無批判に日本人に受け入れられているというところがある。それを単純に当てはめるならば、西欧社会では人は自分の行動に罪悪感を抱きやすいのに対して、日本人は恥を抱きやすいということになる。すると例えば人がごみを捨てないのは、「そうすることはいけないことだから」と考えるのが西欧人で、「そうするところを人に見られると恥ずかしいから」という説明になる。するとこの議論は「では日本人は人が見ていなければ悪いことをする」という結論に結び付けられてしまい、道徳規範を西欧人のように本当の意味で身に着けていない日本文化は遅れている、という風に決めつけられてしまう。
私はこのロジックには大問題があると思うが、(馬鹿にするなよ、と言いたくなる)その本質部分についてはまた別の機会に論じるとして、「日本人が恥の意識を持ちやすいのに比べて、西欧人はそうでない」という前提はいったいどうなんだろう、ということは漠然と疑問に思っていた。しかし「おそらくそうであろう。アメリカ人は人のことを気にしない人種なのだ」程度の認識でアメリカに渡ったのだ。つまり「アメリカ人はシャイではない」説を持っていたのだ。でも長年暮らした結論としては・・・・・、彼らも結構シャイなのだと考えざるを得ない。
気恥ずかしいシーンを二つ考えてみよう。一つは長い廊下を向こうからやってくる人が知り合いだった時の反応。もう一つは、旅立つ人を見送りに電車のホームに来ている人と、車窓の中の見送る相手が、電車が動き出すまでの間にどのように時間をやり過ごすか。いずれも気まずさを体験する状況である。たいていは人は目をそらせて、一定の距離、ないしは別れまでの時間が訪れるまで目を合わせたり手を振ったりはしないものだ。そういう状況での日本人とアメリカ人の反応は全く変わらないのである。ちなみに物心がつき、自意識が芽生える以前の子供はタフである。遠くからこちらを見つけていろいろなサインを送ってくる。あるいはホームではいつまでも目を合わせて手を振り続ける。子供はなんとタフなのか、と感心するほどだ。
アメリカ人は例えばエレベーターの箱に知らない同士乗り合わせたりすると、あるいは細い道ですれ違ったりすると「ハイ」とあいさつを交わすのが普通だ。日本ではそんな時、例えば同じマンションの住人と分かってエレベーターに乗り合わせたら一声かけるかもしれないが、大概はしっかりと無視する。日本人のシャイさが一番顕著に表れていると感じるが、それとは大違いである。(ちなみにこれは私の暮らしたアメリカの田舎では普通だが、ニューヨークの都会などではお互い知らんぷり、ということもあるらしい。)そして私の考えでは、この「ハイ」という声をかけるという習慣はアメリカ人がそれだけシャイだからと思う。最初からその予防をしているのだろう。
これとの関係で私が英語はうまくできていると思うのが、「ハイ、アゲイン」という挨拶なのだ。「こんにちは、のお代わり」というわけだが、これは同じ部署などで、朝一度会ってあいさつを交わした人と再び出会う時なとで用いる。二度も三度も顔を合わせるのは気恥ずかしい状況だが、アメリカ人はこれをうまく扱う実にうまい表現があるわけだ。(一度「さよなら」と言った人と出くわしたら「グッバイ、アゲイン」というのだろうか?これは聞いたことがない・・・・・。)