このように書くと、ではアメリカ人は自分のことをありのままに話しているだけであり、自己愛的なわけではないという風に思われるかもしれない。しかし実際はそのようなアメリカ人の中にも自己愛的な人間、ナル人間は存在するのである。(本書では、自己愛的、ナルシシスティック(略して「ナル」)という言葉は同じ意味を持つとお考えいただきたい。その時の感じで使っているだけである。)
こう考えていただきたい。人は自分が周囲に比べると優れているということを認識することで快感を覚えるよう傾向を大概持っている。中にはそれは快感ではなく、むしろ後ろめたいという人もいるかもしれない。しかしそれは一瞬味わってしまう快感があるがゆえに、そのことに罪の意識を覚えるというわけである。
ただし人より優れていることがそれほどうれしいと感じられないという人もいる。むしろ自分が安全な状況にあるのか、自分の存在がちゃんと保証されているか、ということの方がはるかに重要な人もいる。誰だって場合によってはそうなるであろう。自分が重篤な病に侵されたなら、人より優れているか、とか会社の中での序列などということは一時的にではあれどうでもよくなってしまうはずだ。そしてその意味では人より優れていることを喜び、劣っていることを嘆くのはむしろぜいたくな悩みということが出来よう。
ともかくも自分の身の安全が確保された比較的恵まれた環境に置かれた私たちは、とたんに周囲と自分を比べ始める。そして大概の場合は自分をより大きく見せて周囲との格差を感じて満足する。これは人間の本性と言えるだろう。するとそのような機会をより多く持つのがアメリカ社会であり、そこに暮らすアメリカ人ということになる。何しろ彼らは自分を表現するチャンスをふんだんに持つ、というよりは持たされているからである。そしてその意味ではナルになるチャンスがたくさんあり、実際にナルになっている人もたくさんいるのである。
ところで自己愛的、とは結局どういう状態なのだろうか? かつて私は「ナルな人たち」という本で相当この点について突っ込んで論じた。そこで論じたのは人は自分についての自己愛的なイメージを持ち、それは風船のようなものだと論じた。それは制限されなければ自然と膨らんでいく傾向にある。その風船の大きさを他者と比べるのだ。それが多くの人間が持っている自己愛傾向というわけである。例えばある思春期の青年が、鏡に映った自分を「イケてる!」と思ったとしよう。「自分はクラスでもかなり頭もよく、スポーツもできる。見た目もかっこいい」と思う。もちろん自分の鏡に映った姿を見てそう思える人はかなり限られたおめでたい人だが、人は一般に人は自然と自分を平均以上であるとみる傾向があるのは確かだ。米国の統計だと思うが、普通の大学生の80パーセントは自分は平均以上に優れていると思うという。だから等身大の自分があるとすれば、みなその周りに少し膨らんだ風船をまとっていることになる。そしてその風船は、例えば鏡を見てにやにやしているのを見た母親が「オレ、イケてるな」という息子のつぶやきに同調して、「そうね。少なくともお父さんの若い時よりはずっとイケてるね」と言ってくれたりすると、その風船はさらに膨らむ。(実際にそのように息子に声をかける母親は、実は全く想像できないのだが。)そしてクラスのあこがれの女子生徒に接近しては全く無視されるということで、その風船のふくらみは止まったり、しぼんだり、破裂したりもするというわけだ。
さてこの自己愛傾向は、基本的には文化の差はないものと認識している。そしてそれは人がどれだけ自己欺瞞をしうるかという傾向に関係していると考える。人は平均的な自分を採点すると、偏差値50のはずなのに55をつけてしまうという時点でどこかで自分を偽っているわけであるが、それは人間がそのようなものだからなのである。そこでナルの人は日本人にもアメリカ人にもいるという結論になるわけだ。
ただしアメリカ人のナルはやはりより現実的であり、単なる自慢ではないという傾向は、日本人と比較して見られると私は考えている。そこで出てくるのが例の単純さのロジックである。アメリカ人はナルどうしが比較し、実力を照合をする機会をふんだんに与えられている。ナルはナルですぐに身の程を知らされる。自己愛の風船はその膨らみすぎを修正されるのも早い。
それに比べると・・・・ということで結局日本人のナルの傾向のことを論じることになってしまうが、日本人のナルは静かに潜航することが多い。日本社会ではナルは自己の実力を誇示する必要がない。黙っていれば大御所として扱われ、年齢がいけば祭り上げられる一方ではだれも正面切って挑戦する人が少ない。そこで増々勘違いしてしまい、その結果として例えば政治の世界や実業界で隠然たる力をふるったりすることになる。