アメリカ人も人目を気にする
私たちは社会で生きている以上当然人にどう思われるかに注意を払う。人にどのように思われるか、というのはとても大事なことである。人目を気にしない方がおかしいのだ。ところが日本人は人目を気にすることを何か後ろめたい気がするのだろう。ということは「日本人は人目を気にする」というのは一種の自作自演であり、日本人が自意識過剰になりそのような性質を持っているという説を唱えだしたのだろう。
しかし私は「日本人は人目を気にする」 という考えを確かに持ってアメリカに渡ったし、自分を保ち、人目を気にしないアメリカ社会に慣れて、自分もそうなろう、などということも心の底に持っていたのだ。そして今は「アメリカ人も人目を気にする」と思うようになってくる。他人と自分を比べ、他人から自分はどう見られているかを気にするのは社会で生活を営む人間なら共通して持つ性質なのだ。そしてその思いを強くしたのは私のアメリカの精神科の思春期病棟での経験である。彼らはいかに他人と同じでいるか、いかに一人だけで浮いていることで馬鹿にされないかということをそれこそ日本の思春期の少年、少女と同じように意識していたのである。
アメリカ人の集団に流れる原則があるとすれば、それは「私は~と思う」「私は~と感じる」を常に表明する用意がある、ということだ。そしてこれは~と思ったり、~と感じたりすることが特になくても、それをある事のように見せかけ、問われたら答えられるようにしておく、ということだ。逆にそのようなものがないと思われないように注意する、ということである。そしてこのことは彼らが立派に「人目を気にしている」ということである。そしてそのことは彼らが思春期に達する時には特に重要な意味を持ち始める。
アメリカでは高校の卒業間近にプロムという行事がある。これは男子生徒が女子生徒を誘ってペアで参加するダンスパーティである。車社会のアメリカでは16歳で免許を取ったり、学校に行くためだけの免許を取得して、車でパートナーを迎えに行くということまでやる。そこで一番問題になるのは、女子生徒にとっては「誰かが私を誘ってくれるかしら?」もちろん男子生徒は「あの子が僕の相手になってくれるだろうか?」もちろんダンスをちゃんと踊れるだろうか、人前で恥をかかされないだろうか、といった心配もある。これらはアメリカ人たちが思春期に体験する最大の試練と言っていいが、これほど人目の意識を強要される機会があるだろうか? しかも彼らはそれを、あたかも大人がやるように平気な顔をしてやらなくてはならないのである。
さらには プロムほどではないが、ミドルスクールでもすでにダンスパーティが開かれ、まだ背も伸び切っていない男の子や女の子が、誰がダンスに誘ってくれるだろうかと緊張を迫られるのだ。
それに比べて日本の学校生活はのんびりしたものだ。少なくとも中学生から異性との関わりを人目にさらされる形で行わなくてはならないことはない。せいぜい運動会でオクラホマミキサーの曲に合わせて、意中の異性と十数秒ほど手をつなぐ、というだけだ。