アメリカ人が自慢をしても嫌われないのはなぜか?
話はそれるが私は米国で日本人の留学生がグループの討論に参加をして黙っている様子を何度も見たことがある。というよりは私もはじめのころはそうだったのだ。すると彼らは黙っているメンバーを見て、「いったい何を考えているんだろう?」と猜疑的になっていくことが多い。何かを考えているなら、それは口に出して表現するだろう。それをしないということは、口にできないことを考えているのだろうか?」と皆は心の中で思うのだ。そうとは知らず、「部外者みたいだからおとなしく目立たないようにしていよう」と思っている日本人は逆に目立ってしまっていることに気が付かないのだ。
話を元に戻すなら、自分の考えを伝えるということはとても大事で、さもないと誤解されたり、自分は何も望んでいないと勘違いされるのだということを、ごくごく小さいころから教わるのである。それは親からも教わるし、友達付き合いの中でも叩き込まれるのであろう。これは別のところで書いたアメリカ社会における「単純さ」という話ともつながっている。
そんな社会だから自分が何らかの役割を担うような場面では、立候補が常識だ。人が自分を推薦してくれるだろう、という期待はあまり持たない。立候補をしないとしたら、積極的にはやりたくないけれど勧められたらやるという立場を示していることになるし、そのように扱われる。
アメリカでは例えば研究会などに参加をしても積極的に質問しない、ということはあまり理解を得られない。参加をする、というのは「参加したい」「そこで何かを学びたい」という意思表示と同じである。するとそこに出て質問を求められてそれが出てこないということはないはずだし、そこで話を聞かずに居眠りをすることはありえない、ということになる。したがって発表者が終わった後にだれからも質問が出ない、ということはありえないし、もしそうだとしたら内容に不満だったり、内容が分かりにくかったりすることになり、それはそれで何らかの形で発言されなくてはならないのである。
ということでアメリカ人が機会あるごとに、自分のこれまでの業績を話し、アピールをするのは、自慢をしているというのとはかなり違う。そうすることで人とのやり取りが成立するという前提に従っているだけなのだ。そして自慢と一番違うところは、自分が実際に知らなかったり、体験がないことまで誇張するということは原則としてないということである。それは嘘をつくということになり、それがゆえに人から余計な期待をされたり、責任を負わされたりするかもしれない。それを彼らはおそらく望んではいないのだ。すると自分ができること、体験したことを積極的に表現するということになる。そしてそこには「自分のことをベラベラいうのははしたない」という懸念も例によってあまりない。皆が自分の能力を誇張せずに明らかにし、同様に他者の能力の表明についてもそのものとして受け取る。それで成り立っているのだ。
しかし、である。ここからがおそらく大事だ。
(つづく)