なんと・・・・「死の本」の企画が没になってしまったという。その代わり「アメリカ人と日本人」という企画になった。ということで試しにまえがきを書いてみた。
まえがき
私は25歳の春に医師免許を手にしてから、早速海外に出るチャンスをうかがっていた。外国、特に欧米の文化には一種のあこがれのようなものをもっていたが、だったら外国映画や外国文学に親しめばいいということになるだろう。しかし私はそれらにあまり関心がなかった。生来多動傾向のある私は、落ち着いて本を読んだり映画を見たりということが不得手だったのである。そのかわり生身の外国人、特に欧米人の姿が見てみたい、そして彼らの世界に身を置いてみたいという願望が強かったのだ。本で知識を増やしても、私が彼らの世界に飛び込まない限り意味がない、と思っていたのである。
私がなぜそんなことを思っていたのかわからないが、一つ確かなことがある。それは一種の悔しさ、ふがいなさからくるものであったのは確かなことだ。私は幼少時は日本の地方の田舎町に育ち、しかし学校だけは比較的都会の小学校に通う毎日を過ごしたが(いわゆる「越境入学」というやつである)、そこで時々出会う異星人(ガイジン)が気になっていた。彼らは明らかに日本人と違う髪の色、背格好をし、しかもよくわからない言葉を話していた。私の子供時代といえばもう半世紀以上前であるが、それでも都会の街には彼らはちらほらいた。私は彼らに対して恐れの気持ちを持っていた。彼らは体も大きく怖そうな存在であり、近づいてこられたら困る存在であり、特に英語とやらで話しかけられたら、絶対に窮地に陥るものと分かっていた。だれからも教わったわけではないが、私はそれらを「知って」いたのである。それは周りの日本人の大人たちがそうしていたからだろう。日本人は英語で話しかけてくるガイジンには、絶対に英語で返さなくてはならないこと、そして圧倒的に自分のその力が不足しているので、その場から逃げるか、あるいは冷や汗を流しながら対応するしかない姿を見ていたのだ。
本書の表題から見てもわかるとおり、私は「気弱」な性格である。しかし気弱には二種類あり、気弱でいることに甘んじる人たちと、気弱でいることが悔しい人たちである。私は後者の方であるから、日本人が総じて気弱になるようなガイジンという存在はとても気になった。外人と目が合いそうになると真っ先に遠ざかっていた私は、それを何よりも不甲斐なく思っていたのである。