2021年8月5日木曜日

他者性の問題 4 

 ところでラカン理論はどうか。松本卓也、加藤先生の論文を参考にする。

症例Schreberの診断にみる力動的精神病論の再検討
精神神経学雑誌 (2009) 1111021-1040.

必死にまとめると次のようになった。

ラカン派にとっては、主体はシニフィアンの集合からなる象徴界の成立であり、それに欠陥があること、すなわち<父—の—名>という特権的なシニフィアンの排除forclusion du Nom-  du-Pèreという構造的欠陥があるのが精神病であるととらえた。しかしこの特権的なシニフィアンの排除という見方は、1960年代からは、疎外alienationと分離separation という論点からとらえなおされる。前者は人間が言語の世界に篭絡されること、つまり前言語的存在が抹消されることであり、分離は主体の欲動の対象(対象a)が落下させられ、失われた状態である。ここでは<父—の—名>、すなわち父性隠喩はこの分離の操作の原動力である。つまり1950年代に精神病の構造的条件として捉えられていた「<父—の—名>の排除」は、
1960年代には、「分離の不成功」となったのだ。去勢が作動しない精神病では、aの分離がなされていない。これが成功した場合には、正常と地続きの神経症となり、そこでは対象aが欲動の原因—対象として機能し、他者の享楽の対象であることを拒絶する幻想が生み出される。ところがこれができないと、「致死的な享楽の過剰」をせき止められない。すなわちSでは主体の享楽との直接的関係に基づく病理が発生する。享楽は他者の場に見定められ、主体は他者に享楽される対象へと幻覚的に変貌する。それは「女性化し、他者に性的に濫用される」というschreber の妄想もここから生まれる。
 もちろん意味不明なのだが、Sでは象徴機能の手前にいる、あるいはそこに退行してしまった状態と言えるだろう。
 いずれにせよSの場合はすでに主体が怪しいということになる。