柴山先生の本を読んでみよう。彼も他者性のことについて以前からいろいろ詳細に書いている。何しろ彼は精神病理学者なのである。彼の主著「解離の舞台」の中で、「他者の現前性」「行動の抑制」「他者の先行性の欠如」を挙げている。(「解離の舞台—症状構造と治療」金剛出版 p.234)この中で「他者の先行性」とは、Sの場合などに、「他者が自分の考えをすでに知っている」という構造を指す。こころの中で発語する以前の思考のわずかな動きさえも、すでに他者に先取りされて知って、筒抜けになっているというのが「他者の先行性」である。行動を始めようとするとき、まさにそれを他者に悟られ、他者に先回りされるという体験、「聞こえる内容のように考えさせられてしまう」という訴えもそうだ。さらには「統合失調症の幻聴主体は把握できない。不明の主体としてあらわれる。」(P212)ということも、すでにその「他」が絶対他者ではなくなっているということを表しているのかもしれない。とすれば解離における他者性は少なくとも「先行性」によっては特徴づけられないということになる。
ただしこの議論に問題があるとすれば、それは「SはDと違うんだよ」という議論にはなっても、「これがDにおける他者である」という議論にはなりにくいということだ。なぜならDにおける他者は限りなく「普通の他者」なのである。ちょうど脳の中にもう一人いて、その人は別人だけれどその考えが透けて見えるという体験。その人はあくまでも他者なのである。
ところがSの場合その他者は自分の領域を犯してくるのである。これがいかに正常な自我体験からの逸脱かは強調してもし足りないだろう。例えばAという考えを持つとする。」その瞬間に「Aと思うと知っていたよ」という声が聞こえてきたらどうだろう?少なくとも主体性の感覚は奪われるのではないか。主体性の感覚は、あくまでも私が発動したものという感覚を伴っていなくてはならない。「The sense of agency 動作主体」というのはそのことだ。自分から環境、ないしは他者に働きかけるという感覚がそこに伴っているが、これは物事の因果関係を把握し、理解するうえで決定的な役割を果たすのではないか。赤ん坊が自分で目の前の積み木を崩したいと思う。そして自分がそうしようと思って手を伸ばし、その結果として積み木はばらばらと崩れる。これが正常な動作主体としての体験だ。だからもしそうしようと思っていた時に、母親が手を伸ばして積み木を崩してしまったら、赤ん坊は怒るだろう。また積み木を崩そうと思った瞬間に、積み木が勝手に崩れてしまっても驚くだろう(実は超能力を持っていることが後にわかった場合にはまた別であるが。)おそらく「自分が~する(ことにより世界が変化する)」という感覚と自分は自分である(他とは異なる)とは不可分なはずだ。そのように考えるとSで生じている「他者の先行性」がいかに異様で恐ろしい体験かが分かるであろう。別の人格が自分の中に入り込んでいて、自分という感覚を危うくしてしまうのだ。
さてDの場合、他者はあくまでも別個の他者として影響を与えてくる。ある考えを押し付けてくる。でもそれはやはり他者なのだ。そしてその他者は個別性を持っていて、決して自分の部分ではない。もし自分の部分であるならば、ちょうど自分という体験のモジュール性を発揮するだろう。例えば胸がなぜかドキドキしだした。足の力が勝手に抜けた。指先にぬるっとした感触を味わった、など。自分の臓器、運動器、感覚器といった自分のモジュールが自分の「手足となって」働いてそのフィードバックをしてくる。これが部分としての働きであり、それが影響を与えてくれるのだが、それはもともとそのように想定していた出来事であり、何ら怖いことではない。ところが別人格は自分の意志を持って、何かを伝えてくる。すなわちそれは決して「部分」ではない。ということは別人格が決して断片や部分ではないということの証左ではないだろうか。
さてDの場合、他者はあくまでも別個の他者として影響を与えてくる。ある考えを押し付けてくる。でもそれはやはり他者なのだ。そしてその他者は個別性を持っていて、決して自分の部分ではない。もし自分の部分であるならば、ちょうど自分という体験のモジュール性を発揮するだろう。例えば胸がなぜかドキドキしだした。足の力が勝手に抜けた。指先にぬるっとした感触を味わった、など。自分の臓器、運動器、感覚器といった自分のモジュールが自分の「手足となって」働いてそのフィードバックをしてくる。これが部分としての働きであり、それが影響を与えてくれるのだが、それはもともとそのように想定していた出来事であり、何ら怖いことではない。ところが別人格は自分の意志を持って、何かを伝えてくる。すなわちそれは決して「部分」ではない。ということは別人格が決して断片や部分ではないということの証左ではないだろうか。