2021年8月4日水曜日

他者性の問題 3

 他者性の病理としての統合失調症

 統合失調症でいわれる他者性の問題とは何か。以下は高谷掌子著「私と汝が『絶対の他』であるということ―― 木村敏は西田幾多郎の『私と汝』をどう読むか―――」(京都大学大学院教育学研究科紀要(2020)666982から多くを引用する。

かの木村敏先生は以下のように書いている。

精神分裂病者の自覚においては、いわばこの「汝」の絶対的他者性が問題と化している。「汝」の他者性、「私ならざるもの」性が確立しえなくなっている、と言ってもよい。このことは逆に見れば、「私」が「私」性を確保し難くなって「汝」性の方へと吸収されようとする事態だとも言える。「絶対に他なるが故に内的に結合する」のではなくなって、むしろ、絶対に他たりえないために内的に結合しえず、内的な離反対立が生じる。それは、「汝」性を帯びた「私」と「私」性を帯びた「汝」との離反対立である。(i276

 「木村敏先生、むずかしい、勘弁してよー」と言いたくなるが、私なりに理解すると次のようになる。
 Sでは自分以外のものとしての他者が確立していない。そしてそれは「自」が希薄だからだ。だから「自」が「他」に引き寄せられてしまう。結果として自と他が未分化な状態になってしまう。
 もう少しわかりやすく言うと、「自分」というものが確かでないから容易に「他者」と区別がつかなくなってしまう。
 Sは自我障害だ、とはよく言われたものである。そしてよく取りざたされるのが、Karl Jaspers (1997/1913) の四つの自我機能という概念である。

「能動性の意識」 自分自身が何か行っていると感じられること。
「単一性の意識」 自分が単独の存在であると感じられること。
「同一性の意識」 時を経ても自分は変わらないと感じられること。
「限界性の意識」 自分は他者や外界と区別されていると感じられること。

 つまり統合失調症は自我が障害されているので、そこから他者性の問題が生じてくる、という論法になる。木村先生は「絶対の他」という語は、「あいだ」から自己が成立するために不可欠でありながら、Sでは失われているということだ。ここには西田哲学が関係しているらしい。西田は、「私と汝は絶対に他なるものである」ため「絶対に他なるがゆえに内的に結合するのである」という(西田 1987307)木村先生によれば、結局は精神の病は「あいだ」の病というのであろうが、そのために自己も絶対の他も成立しない、ということになる。確かに他者は他者としてしっかりと距離を置いて向こう側にいてくれるから安心するのであり、ふと気が付いたら横にいた、というのはとても怖い体験になるだろう。

ただし木村先生の記述の中で一つ分からないことがある。

以下は高谷論文からの長い引用。

彼は「妄想的自覚」の症例として、自分が「サイコ機械」だという患者の談話を挙げる。かじゃあは自分が操られているから「サイコ機械」というのではないという。「サイコ機械」が自分になったというのだ。(サイコ機械は僕の体の中に入って、こうやって(紙に字を書きながら)僕の手を使って連絡してくるのです。)そこには操る何者かと操られる自分といった自他の区別はない。いわば「サイコ機械」性を帯びた「僕」と「僕」性を帯びた「サイコ機械」の「離反対立」だけがある。要するに、統合失調症患者にとっては、「あいだ」における自覚に不可欠な「絶対の他」という契機が失われ、自己が他者性を帯び、他者が自己性を帯びている。

問題はこれと、Dにおける「させられ体験」がどう違うか、だ。