2021年8月3日火曜日

他者性の問題 2

 自分の中の他者について

さて自分の中の他者についてどう考えるべきかとなると一挙に話は複雑になる。というのも私たちは自分の中で他者にしばしば出会うからであり、それが精神医学的な症状を形成することにもつながる。そしてここでいう「他者」とは他者の内的なイメージとしてのそれとは異なる問題を指す。そしてこの問題を一挙に複雑にするのが、「他者としての自己」という問題である。昨日は「自分自身についても私たちは真の姿には到達しえない」と書いたが、その意味では自分も他者なのである。
 一番ありふれた、「他者との会い方」を考えてみよう。例えば私たちは例えば夢の中で他者としょっちゅう出会っている。夢に出てきたAさんは独自の動きを見せ、予想に反した言動をする。もうなくなっているはずなのに普通に登場することもある。しかしそれはすべて私たちの無意識が作り出したことである。
 でもこれよりももっと身近な会い方があるという人もいるだろう。Aさんのことを想像してみるのだ。例えばAさんが微笑みかける姿を想像することができるだろう。それは夢の中で微笑みかけているAさんの夢を見るということとそれほど違うだろうか。
 この問題で必ず登場するのは、「でもそれは表象みたいなものでしょ?」という主張である。Aさんがほほ笑むのを思い浮かべるとき、確かにそこに私たちが想像した以上の微笑み方はしないだろう。「Aさんがほほ笑むのを想像してみた。するとAさんが急に怖い顔になった。どうしよう・・・・」という体験をした際、それはすでに通常の想像によるAさんのイメージではなく、夢に出てくるイメージに近い。表象(例えば想像したリンゴ)的、というよりは知覚(目の前にあるリンゴ)的、というわけだ。
 私がよく出すある作家(私の中では村上春樹)から聞いた逸話に、「頭の中に登場人物を浮かべ、あとは勝手にふるまってもらい、それを小説にする」というのがあるが、そうなるとこのような体験はより「他者」と出会っていることになるだろう。これは自分の想像ではなく、創造の産物ということになる。創造とは自分が意図しないようなイメージや作品を作り出すことだとすれば、表象から知覚に移った際はそれが生じるということになる。その意味では夢とはことごとく創造性の産物ということになる。そしてこれを広げるならば、私たちは自分の脳で常に創造されるイメージという他者に出会っているということにもなるのだ。
 ところでこのように考えると、私たちが扱うべき他者とは実は錯覚の産物に過ぎないのではないか、ということになる。例えば作家の頭にAさんを思い浮かべてもらう。そしてそのAさんが作家の中で予想外の振る舞いをしたとしよう。作家は「面白い、これで行こう」とそれをストーリーにするかもしれない。しかし傍目から見たら「でも村上先生、それって結局先生が作り上げているってことですよね。」ということになるだろう。「いやいや、私の頭の中でAさんが勝手にふるまったんだよ」といくら村上先生が言ったところで、私たちはそれを先生の作家としての力量としてしか見ない。とすると実は村上先生が思いついているにもかかわらず、どこかから降ってきたと勘違い、ないし錯覚をすることで、それが表象的、ではなく知覚的な現れ方をしたと感じるだけかもしれない。
 一番直接的な体験を、私は歯医者さんで体験する。抜歯などで強い麻酔を打たれると、その時に自分の顎を触っても「モノ」としての感触になってしまう。私が米国で抜歯をした時、とにかくかなり強い麻酔を打たれるので、数時間はあごの片側が「モノ」になる体験を楽しんだ。ふつう私たちは自分を触ると、触られる感触も同時に体験されて、その部分が自分の一部であるという自覚が生まれる。脳外科領域では右脳の脳梗塞で、左半身が自分ではないものに体験されるという「半側無視hemiagnosia」の状態が知られている。体の半分が突然「他者」になってしまうのである。
 実はこれと深く関係していそうなのだが、いまひとつピンとこない例もここで紹介しておこう。人工的に幽体離脱を体験する方法である。
 目の前のダミーの背中を突っつき、それと同じタイミングで自分の背中を突っつくような装置を作ると、それを誰か別の人がそこにいて自分を突っついていると感じるようになるという。はじめはそのような装置なのだ、と思っていても、そのダミーが自分であり、もう一つの自分がその背後にいるという感じがするようになるという。一種の幽体離脱体験だ。特にそのタイミングを05秒ずらした場合にはそうなるという。ナショナルジオグラフィックス別冊1.「科学で解き明かす超常現象」P.58
 また似たような実験も報告されている。自分の姿を背後から映すカメラを用意し、その映像をゴーグルで見れるようにする。そして誰かに自分のおなかを突っつくという動作を、背後のカメラに向かって突っつくという動作と同期させてやってもらう。これもまた同様の幽体離脱の感覚を生むというのだ。これらに現れたのはある種の錯覚なのだが、前者の場合は、自分がある存在の背中を突っつくという動作が、自分以外の、すなわち他者から背中を突っつかれたという感覚と同時に体験されることにより、

「目の前のダミーは自分だ。なぜなら自分は突っつかれていると感じるからだ」+「でも自分はその自分の背後にいる」= 「自分は二人いる」

となる。また後者では、

「自分が他者から突っつかれる」+「でも自分はそれを後ろで見ている」=「自分は二人いる」

両者とも構造は同じということになる。