嫌悪の論文、やっと終了した。昨日提出した。今日から新しいテーマ。これはおそらく3か月くらい続きそうだ。
一般的な他者について
他者性の問題というテーマでしばらく書くことになる。ただこのテーマはあまりに膨大なものであり、哲学的でもあり、精神医学的でもあり、心理学的でもありうる。
まずは素朴な問いから。そもそも私たちは現実の世界の中で他者とどのように出会っているのか。もちろん日常生活で私たちは常に他者と出会っている。ただし私たちは他者そのものではなく、心の中にある「他者像」と出会っているといった方がいい。たとえばよく知っているAさんと会う時、私たちは「Aさんはこんな人だよね」と思っている人と会っている。Aさんが慣れ親しんで、お互いに気心が知れていると思えるような人なら、間違いなくそうだ。だからAさんが初対面の場合には、私たちはものすごく緊張し、警戒するのだ。それはどのように会えばいいのかがわからないからである。「ああ、あの人ね。」というイメージが出来ていず、手掛かりがつかめないからだ。もしその人が、例えばいつも講義を聞いている先生で、その先生のいろいろな話を聞いている場合には、こちらの方はその先生についてのイメージが出来ているので、こちらとしては会いやすいだろう。ところが、まったくその人の姿を見たことがないのであれば、勝手が違う。そして例えば初対面のAさんと、ぎこちなくお互いに警戒をしながら話していくうちに、たまたま同郷であることを知ると、全く違ってくる。「えー、そうなんだ! あの小学校私も通ったんですよ」「○○先生っていたでしょ?」というあたりからAさんは対象像として心の中に実を結び始め、普通の会い方が出来てくるのである。
Aさんが人間的にも全く問題がなく、人に好かれているとしよう。それでもあなたは初対面のAさんと会う時は緊張するはずだ。それは実際に会ってみないと、どうなるかわからないからである。特にあなた自身がAさんを好きになれるかは、とにかく直接会ってみる以外には分からないからである。たまたま同郷であることを知ったことで、あなたはAさんを好きになる一つの口実を得たことにもなるのである。
ただし他者イメージを獲得することは、Aさんの他者としてのあり方を変えることにはならないのはもちろんである。あなたがこれまで思っていたAさんは、実は実際のAさんと違っていた、ということはいくらでも起きる。というよりそもそもAさんというイメージは、多面的で複雑なAさんのごく一部だけを取り出したものにすぎないからだ。現実のAさんは実はいくら頑張っても到達できない。(それどころかAさんにとってもわからない。私たちは真の自分にも出会えない、ということになる。)そしてそれが相手を主体として扱うことだ、という議論が、ウィニコットやベンジャミンの論じている内容に通じるのである。