2021年8月11日水曜日

他者性の問題 7

 フロイトの、トラウマに関心を払わないという態度に不満を持った弟子たちはいた。アドラーやフェレンチはその代表であった。それにロナルド・フェアバーン、マイクル・バリント、ドナルド・ウィニコットたちもそうであった。しかし彼らは解離という言葉を用いてはいても、それは精神分析の主流には組み込まれることはなかったのだ。また後になってサリバンが同様の概念を唱えたわけだが、彼の解離の議論も十分に評価されたとは言えなかった。しかし最近になって、精神分析の分野では新たに解離に対する関心が集まってきている。その主要な論者は、Phillip Bromberg, Donnel Stern, Elizabeth Howell, Sheldon Itzkowitz などであり、主として関係論の立場からである。
 私がこの論文で論じたいことの一つは、DIDにおける交代人格は独自で独立しているのか、それとも部分的で統合を待っているのか、という点に関する多くの識者の意見が異なっているということについての意見が相当違うということである。この後者の考え方は精神分析の考え方に従う。それによれば、心は基本的には単一であり、それは無意識を持っているという考え方につながる。
 この区別は単純化されすぎていると考えられるかもしれない。しかしこれについて意識することは、私たちが解離性障害の患者を扱う上で大きな変化を起こすかもしれない。後者では私たちは解釈的なアプローチをするかもしれない。それは無意識を通じて別の部分に語り掛けることが出来ると思うからだ。しかし前者ではそれぞれの人格間の連絡を取ることを促すであろう。
 歴史的には、精神分析の分野ではこの区別は問題とされなかった。なぜなら心は単一だったからである(van der Hart & Dorahy, 2009)。ただしフェレンチはそのように考えていなかったようだ。私が冒頭に示した言葉はそれを物語っている。私たちは解離的なパーソナリティは別の人間として扱うべきであるし(患者は、トランス状態に入ってしまった患者はまさしく本当に子供なのです。)解釈的なアプローチ(「知的な説明」はあまり意味がないのである。この言葉から私は自分のケースについて自然と思い出す。
 

私のある女性の患者は、精神分析治療を受けてもう3年になる。ある日子供のパーソナリティが出てきた時、彼女はいつものエレガントな振る舞いとは非常に異なったたたずまいを見せた。ドクターBは最初は当惑した。そして落ち着きを一生懸命取り戻していった。「ともかくもセッションを始めましょう。あなたは子供っぽい部分を私の前で表現したいのだな、と思いました。あなたの頭に今浮かんできているのはどういうことでしょうか?」その時までに子供のパーソナリティはすぐに内側に引っ込んでしまった。そして自らにつぶやいた。「あれあれ、私はまだ出るのは早すぎたかもしれないわ。でも以前出たときには気が付いてもくれなかったのだから、このドクターは一歩前進したかもしれないわね。」