2021年8月12日木曜日

他者性の問題 8

  そもそも精神分析を含む精神力動学が始まった19世紀には、様々な理論が存在し、そこには「ポリサイキズム」、すなわち一人の人間に複数の人格が存在するという理論もありえたのである(Ellenberger, 1972)。
 Freud Breuer に共同の執筆を誘いかけ、共著論文「ヒステリー諸現象の心的機制について暫定報告」(1893年) を書いた。Breuer にとってはとても成功したとは言えない、しかも10年前のアンナ O. の治療について執筆することは不本意であったが Freud に押される形で 1895年に「ヒステリー研究」を発表することとなった。この本の構成は、第1章が上記の「暫定報告」の再録、第2章が Breuer によるアンナ O. の治療、第3 Freud 4ケース、第4章が Breuer の理論、第5章が Freud の理論、というものだった。この本の第1章では Freud Breuer の唱える類催眠状態の理論に賛同していたが、後半では Breuer と異なる意見をすでに表明している。Freud 1889年にフランスの Hippolyte Bernheim を訪れてから、催眠ではなく自由連想にシフトし始めていたのだ。その意味で「ヒステリー研究」は Freud Breuer に生じていた隔たりを浮き彫りにする形となった。
 Freud Breuer, Janet は、ヒステリーの理解について異なった考えを持っていたが、それを簡潔に言えばこうなる。

  Breuer, Janet:トラウマ時に解離(意識のスプリッティング)が生じる。

●  Freud : 私はそもそも解離(類催眠)状態に出会ったことがない。(結局は防衛が起きているのだ。)

他方 Janet は意識のスプリッティングを意識の増殖 multiplication としてとらえていたと考えられる根拠がある。それは Janet が解離の「第二法則」という提言を行っていることから伺える。
 (解離が生じる際にも)主たるパーソナリティの単一性は変わらない。そこから何もちぎれていかないし、分割もされない。解離の体験は常に、それが生じた瞬間から、第二のシステムに属するJanet, 1887) 

 しかし不思議なのは、そもそもブロイアーの扱っていたアンナOは、バリバリのDIDだったわけである。フロイトもそれをしっかり聞いていたはずなのだ。二人の全く異なる意識状態が存在し、それらは非常に高速に入れ替わった。一つの状態では彼女は周囲のことを認識していた。彼女は抑うつ的で不安で、でも比較的正常であった。もう一つの状態は幻聴を体験していた。
 フロイトはアンナOのケースについてはよく知っていたはずである。彼女は明白に異なる人格状態を示していたからだ。しかしこれは彼の信念を変えなかった。それどころか類催眠状態そのものを否定することになったのである。
 フロイトはヒステリー患者の多くが小児期にトラウマを体験していることを知った時、彼はブロイアーに、一緒に本を書くことを提案した。フロイトはヒステリーには3つの種類があるといった。「類催眠ヒステリー」と「貯留ヒステリー」と「防衛ヒステリー」であるとした。しかしこの中の「類催眠ヒステリー」についてフロイトは不満だったことは、ヒステリー研究の中ですでに明らかになっていた。最後のチャプターで彼は書いてある。
 私はこの違いを非常に本質的なものと見なす故に、その違いから、類催眠ヒステリーを一つの項目として立てるという決断を下したい。奇妙なことではあるが、私は自身の経験において真性の類催眠ヒステリーに遭遇したことがない。私が着手したものは、防衛ヒステリーヘと変化したのである。だがそれは、〔本来の意識状態と〕明らかに切り離された意識状態において成立し、故に自我への受容から閉め出されたに違いない症状と一度も関わりを持たなかった、ということではない。私の扱った症例においても、ときにそうしたことは起きた。しかし、私はその場合にも、いわゆる類催眠状態が切り離されるのは、以前から防衛により分離していた心的〔表象〕集合体が、その状態で効力を発揮していたという事情があるからだ、と証明できたのであった。手短に言えば、私には、類催眠ヒステ リーと防衛ヒステリーはどこか根っこの所で重なり合っているのではないか、そして、その際には防衛の方が一次的なのではないか、という疑念を抑え込めないのである 。しかし、これについては何もわからない。
 フロイトはこの問題を忘れることはなかった。そして症例ドラ(1905)において以下のように述べている。
 私がこの機会に申し上げたいのは、「類催眠状態」の仮説については、多くの読者が私たちの仕事の中心的な部分とみなす傾向にあるが、これは完全にブロイアーの意図により生まれたものであるということだ。私はそのような用語を用いるのは余計であり、混乱を起こすものだと思う。なぜならそれはヒステリー的な症状の形成に随伴する心理的な過程の性質にかかわる問題の連続性を中断するからである。
 フロイトはのちになって余計で誤解を招くものとまで考えるほどに類催眠状態という概念に反対したのだろうか? なぜならこの概念は心のスプリッティングを前提とするが、それは力動的な説明ではないからだったのだ。フロイトの立場は「防衛神経症」(1984)における記述に詳しいが、そこではジャネが標的にされている。

フロイトはなぜ解離を受け入れなかったのか?

フロイトは解離が好きではなかったのだろう。それはなぜだったのだろうか?一つの考え方は、フロイトがこれに関して最も“parsimonious(最も簡潔)な理論を選んだからだということが出来るだろう。
 そのジレンマとは二つの対立した問題からなる。一つは内的な因子であるリビドーが心がいかに働くかを決定する。他方では複数の外的な因子(日常的な出来事から性的なトラウマに及ぶ)が心を統御するという見方である。このジレンマを解決するためには、フロイトは欲動モデルと最も説得力があるものと考えたのだ。そしてこの理論はフェヒナーや他のヘルムホルツ学派の理論と同じように、心のエネルギーをあたかも物理的なエネルギーと同等に扱うというアプローチであった。フロイトはまた性的なトラウマの影響力の大きさももちろん認識していた。それは彼が性的なトラウマ説を放棄した後でもそうだったのである。彼は性的トラウマが起きるには起きたが、それはリビドーを高めるという影響があったと想定した。つまりそのような外的なものも内的なものに還元できると考えたわけである。しかしそのためにこの不思議な現象から目を逸らしたというのがよく分からないことなのである。
 実はフロイトはこんなことを1936年に書いている。「離人症の問題は私たちを途方もない状態、すなわち「二重意識」へと誘う。これはより正確には「スプリット・パーソナリティ」と呼ばれる。しかしこれにまつわることはあまりにも不明で科学的にわかったことはほとんどないので、私はこれについては言及することは避けなくてはならない。」(Freud, 1936 p245
 すなわちフロイトはこの不思議な状態について分かっていながら目をつぶっていたという事が分かるのである。
  ヴァンデアハートはこのようなことを書いている。精神分析とそうでないのでは、基本にある前提が違うのだ。後者を特徴づけるのは次の二つの考え方である。①ストレスにより統合されていた機能は一時的に停止してしまう。
 ② 同時に生じる、別個の、あるいはスプリットオフされた精神的な組織、パーソナリティ、ないしは意識の流れが出来上がること。
 このもう一つの組織はトラウマ的な出来事に関する統合されていない、知覚的で心理的な要素このパーソナリティの組織は個人の意識外で働き、そこにアクセスできるのは催眠や自動書記によってである。これは意識(やパーソナリティ)の分割(解離)であり、それが健忘や拘縮などのヒステリー(解離)性の症状を生むのだ。分析家にとっては、統合の失敗というだけでなく、心的な構造や組織なのである(つまり解離的な心的組織)しかし初期のフロイト派は、彼らの解離の見方を最初の見かた(つまり防衛のための統合の失敗)に制限したのである(van der Hart, 2009, p. 14.)
  この記述が示しているのは、フロイトは実はスプリッティングが起きているのを気が付いたが、それは意志の力によるものであり、一つの自己の下に二つの心が出来上がったという考え方である。そしてそれぞれの部分は決して自立性を持った独立した心へは発展しないのであった。これは究極のトップダウンモデルである。しかしボトムアップからしか他者は生まれないのだ。