Sullivan や対人関係学派の理論家は解離を主としてトラウマ理論の文脈で論じる。Sullivan の「good me」、「bad me」、「not me」の関係が特に興味深い。これらの中でnot me は深刻な悪夢や解離状態でしか見られないという(Sullivan, 1953)。この体験は痛みを伴うために、原初的な状態(ないしはサリバンが言うところの「プロトタキシック」「パラタキシック」なレベル)でしか体験されない。私たちはサリバンの言う解離は主体(not-me)は主たる主体(”me”)からは独立したものであり、おそらく van der Hart の言うタイプ(2)の域に達しているのではないかと考えられよう。
「解離を曖昧さから救い出そう」と望む分析家たちの唱和が聞こえるという(Goldman, p. 338)。精神分析家であるKluft や Howell や Itzkowitz 達は精神分析的な議論の中にトラウマや解離を導入したが、これらは本来は精神分析のコミュニティの外部で議論されていたことであった。Kluft Putnam は分析的な論文を書いたが、その影響力は限られたものであった(Putnam, 1992, Kluft, 2000)。しかし彼らのリーダーシップは分析の外の世界では違法字大きいものであった。Howell と Itzkowitz (2016)は現代の精神分析における解離の理解をまとめている。
スターンの定式化されていない unformulated 体験と解離
スターンの基本的な姿勢は、解離を第一義的に防衛としてとらえるというものである。「解離はトラウマに関する文献で様々に概念化されているが、解離についての理論は人生における出来事が耐えがたい時の自己防衛のプロセスという概念をめぐっている (Stern, 2009, p. 653)。」彼の言うように、いろいろな個人差はあるとしても、解離の理論は防衛モデルとして描くことが出来る。このモデルを「ヒステリー研究」におけるフロイトの理論と比較した場合、類似性と相違が際立つ。