嫌悪刺激を記憶の観点から見る
嫌悪の病理として、報酬系が陥る病理と依存症について述べたが、本稿でもう一つ論じるべきテーマがある。それは私たちにとっては一部の嫌悪刺激は決して忘れ去られることなく永続的に私たちを苦しめるという現象である。この問題はより嫌悪の問題そのものにかかわるテーマである。
この問題について論じる前提として、私たちの体験する快や不快には二つの種類があることを理解しよう。一つは「現実的」、生理的な快ともいうべきものであり、もう一つは「仮想的」、想像的なものである。
動物実験ではサルを使ってトレーニングをすると、大脳基底核という部分にあるドーパミン細胞が興味ある動きを示すという。最初は果物などの報酬を与えたときに高まりを見せたドーパミンのphasic活動が、それをもらえるとわかった時点での興奮に前倒しされることが分かっている(Schultz 1993)。
Schultz W, Apicella P, Ljungberg T(1993)Responses
of monkey dopamine neurons to reward and conditioned stimuli during successive
steps of learning a delayed response task.
J Neurosci 13:900-913.
もう少し身近な例として渇きに耐えて砂漠を歩く旅人のことを想像しよう。彼ははるか先にオアシスを見つける。その時点で旅人は歓喜にふるえるだろう。それはおそらく報酬系の興奮を伴う。しかし実際にオアシスにたどり着き、ひと掬いの水を口に入れ飲み込む時の快感は、それとは別の種類のものである。このときオアシスを見つけ、将来水にありつけることが分かった時の快は「仮想的」なものである。なぜならそれは実際に水を飲んでいることを想像したときのかりそめの快感にすぎないからだ。また実際に水を飲んだ際の快感は「直接的」な快ということになる。
フロイトはその本能論の中で、生下時には乳児はこの「仮想的」快を「幻覚的」に体験するので、現実的なものと混同すると考えた。そしてそれをいわば精神病的な段階になぞらえることが出来る「一次過程」とよび、それと現実とを区別するより成熟した心のプロセスを「二次過程」とした。しかしこの一次過程から二次過程への移行は比較的速やかに行われなくてはならないことになる。なぜならのどの渇きを覚えた旅人は、水を飲むことを想像した「幻覚的」な快のみに満足していては、たちまち脱水状態になり、衰弱死してしまうからである。生命体はおそらくこの二種類の快や苦痛をかなり明確に区別することが出来るはずである。両者の差が必要な行動を生むからだ。なお生理学的にはこれを「報酬予測誤差」の問題として盛んに研究がおこなわれている。
同様の区分はもちろん嫌悪刺激についてもいえる。これから鞭打ち刑を受けることを知らされた囚人は、実際に鞭打たれる前から苦痛を感じるだろう。しかしそれは「仮想的」なものであり、実際に身体的に鞭打たれた時の苦痛、すなわち「現実的」な苦痛とは全く性質が異なるといわなくてはならない。この違いを知ることもまた生存にとって重要なのだ。ただしここで述べた嫌悪刺激の「仮想的」「現実的」という区別は、報酬に対する両者の区別と不可分に体験されていたということは重要である。なぜなら将来得られる快を「仮想的」に体験して実際には得られなかったなら、その時のガッカリ感はまさに嫌悪刺激と同じと考えられるからである。そしてその苦痛の部分は図に示されたドーパミン信号の「凹み」によってあらわされているのだ。