2021年7月26日月曜日

嫌悪の精神病理 推敲 4

  私たちの報酬系は、快の程度が一定限度内であれば、穏やかな快感を保証してくれるのであった。それは自分にとって癒しとなり、また生きる喜びにもなるだろう。たとえば毎日仕事があるものの、決まった時間にブレークタイムがあり、ある心地よさを体験しているとしよう。それはケーキやグラス一杯のワインなどの嗜好品かもしれないし、読書やゲームで過ごすひと時かもしれない。それが終わるとあなたは満ち足りた気持ちで再び業務に戻るのである。あなたは明日もその時間を楽しみにし、自分に対するご褒美と考え、それにより仕事へのモティベーションも上がるかもしれない。
 ところがそのブレークタイムに、あなたはヘロインのパイプを提供されるとしよう。あるいはあぶって数純度の高いコカイン(いわゆる「クラック」)でもいい。今日からはこの新しいメニューが続くのだという。あなたが興味本位でそれを吸ってみると、たちまち強烈な多幸感に襲われる。「性的オーガズムの数万倍の快感を全身の隅々の細胞で行っているような」と形容される快感を初めて味わった時、おそらくあなたは通常の仕事には戻れない。戻ったとしても
ボーっとして、先ほどのブレークタイムで自分の身に起きたことを考えて過ごすかもしれない。そして翌日もまた雲に乗ったようなあの強烈な快感を味わう。こうして何日かを過ごすうちに、あなたは自分の心や体に異変が生じていることに気が付く。まずあなたはブレークタイムのことが頭にこびりついて離れなくなるからだ。気が付くと翌日のその時間が待てなくなっている。他のことが考えられなくなっているために、仕事に戻ることが難しくなっている。そうしてさらに不幸なことが起き始めていることを知る。それはヘロインやコカインによる快感が過ぎ去った後、不思議な苦しさが訪れるようになることだ。特にヘロインの離脱症状は過酷なものである。身体中に起こる関節痛、とてつもない倦怠感や吐き気。しかも時と共にそれが増していくのである。そしてその苦しさは、次の日に再びヘロインを使用する時まで続くのだ。

 さらにもう一つの問題が起きる。それは同じ量のヘロインやコカインで得られる快感は明らかに前回よりは減っている。それは苦しさを一時軽減してくれるだけで、恐らく快感としてすら体験されない。こうして報酬系は最初の甚大な快感をそっくりそのまま苦痛へと変質させてしまうのである。いわば報酬系は私たちに奉仕するどころか、最悪の事態を引き起こし、私たちを裏切るのだ。これはこういって差し支えなければ報酬系という器官は途方もないバグを有している。それは一定以上の快の刺激で、快感どころか災厄をもたらすのだ。そしてその人をおそらく二度と立ち上がれない廃人のようにしてしまうのだ。
 筆者が嫌悪の病理としてこの報酬系の暴走状態を取り上げるのには理由がある。確かにヘロイン吸引により、人は「一生で経験する快感の総和以上の快感」を得るかもしれない。しかし離脱による症状は「地獄そのもの以外の何でもない」とまで言われるのだ。
 ここで私たちの心にひとつ疑問が生じていいだろう。過剰な快に対する報酬系の振る舞いは、神がそう設計した結果だろうか。人(実は動物も同じである)は一定以上の快を味わった際にその人を廃人にするべく設計されたものだろうか?それとも自然がそのような快の源泉を想定していなかったのだろうか? たしかに生命体がこのようなバグを有する報酬系を抱えながら生き延びてきたのは、生命体がそのような強烈な報酬刺激に自然界では滅多に出会わなかったからであろう。例えばケシの実からとれる白い汁に含まれるモルヒネの濃度が極めて高かったとしたら、動物の多くはケシ畑を離れられなくなり、食べ物を探したり繁殖をしたりせずにケシの実を齧り続けて廃人(廃物?)になり餓死してしまうだろう。(ちなみに自然界で精神変容作用を起こす植物に動物が翻弄される例は数多く知られている。)
 すなわち私たちの文明が、自然界ではほとんどありえないような報酬刺激を作ってしまったのがいけないのか?その理由は分からない。ただしこのバグの本体は少しずつ解明されつつある。そしてそれに従い、薬物依存をいかに治療するかについてのヒントも与えられつつあるのだ。

報酬系が狂うプロセス

 快についてはVTAからNAccに投射されるドーパミンニューロンが関与していることについてはすでに述べた。ここでいわゆる長期増強、長期抑圧という現象が生じることが依存症の形成に関係している。長期増強とは二つの神経細胞を同時に刺激することにより両者の間の信号伝達が持続的に高まるという現象である。その際エンドソームから次々とりセプターが繰り出されてシナプスを強化する。わかりやすく言えば、報酬系の中枢の部分の回路がより太く、強力になるのだ。この長期増強は、例えば一回のコカインの使用ですでに最大限にまで達するという。そしてこの長期増強が薬物依存に関係していることは、その長期増強を抑える薬物、たとえばMK-801 で前処理されたラットではこの依存症が起きないことにより証明されている。ただしこの長期増強はアルコールやニコチンでも一回で生じるというのだ。ところが依存症はたった一度の使用で起きるわけではない。

そこで強烈な依存症の成立には別の仕組みが関与していることになるが、それがGABAによる長期抑制という仕組みである。GABAニューロンは報酬系を抑制する働きがある。それの抑制、すなわち抑制の抑制による増強という現象が、薬物の使用回数が上がるにしたがって高まっていくという。これが依存症の成立に絡んでいるという。

依存症による脳の変化はさらにドーパミンの投射先であるNAccや背側線条体、前頭前皮質のシナプスにも変化が生まれる。NAccの中型有刺ニューロンの棘の数は格段に増えて刺激をよりキャッチしやすくなるが、この変化は永続的であるという。また海馬、前頭前皮質、偏桃体から側坐核に情報を届けるグルタミン酸システムの長期抑制が起きる。これらの変化は全体として、とてつもない快感を再び期待して報酬系が悪魔的な学習diabolical learning (Stahl, 2012)を起こしてしまい、これが初期の耐性と依存性のもととなっている可能性があるという。しかもこの脳の変化はほぼ不可逆的であり、薬物依存者は再び正常の脳を取り戻すことは出来ないのだ。