喪失体験と忘れられない病理
本稿が嫌悪の精神病理について論じるという目的を持つので、ここで特に「仮想的」な苦痛について目を転じなくてはならない。仮想的な苦痛もまた時間をかけて緩徐に体験されていくものである。その典型が、何かを失う、という喪失体験である。ここで喪失の対象となるものは人やペットや物かもしれないし、能力や健康、身体機能、地位や名誉などの抽象的なものかもしれない。
何かを失ったと知った時、私たちはそれが自分にとって何を意味するかを一挙には体験できない。例えば愛犬を事故等で突然失った場合、その苦しみは直接的、生理的なものを含んでいたとしても、さほど大きくはない。愛犬を撫でたときの手の感触が失われることは直接的、生理的な喪失と考えるかもしれない。しかし旅行でしばらく家を離れるので愛犬を撫でられないからと言って耐え難い寂しさや禁断症状は普通は起きない。その意味で愛犬の喪失体験は、「現実的」な喪失の上には何層もの「仮想的」な部分が積み重なっているのである。
喪失の痛みの基本部分が「仮想的」である以上、それは一度に受け入れることが出来ないのが普通だが、幸運なことに、その喪失は時間とともにその痛みが失われていくのがふつうである。もちろん愛する人を失った悲しみや喪失感はいつまで経ってもいえないかもしれない。このように考えるといわゆる「日にち薬」という表現の意味が分かる。
喪失による「仮想的」な苦痛の中でも、比較的早くから失われていくのが、エピソード記憶に関連した部分である。喪失体験が特定の出来事の克明な記憶を伴っている場合、そのうちの「エピソード記憶」の部分は比較的順調に失われていく。愛犬を病気で失ったという記憶は、その際の出来事の時間経過を追った詳細や部分はやがて薄れていく。
その記憶が徐々に不鮮明になっていくのはエピソード記憶が基本的にはいわゆる「エビングハウスの忘却曲線」を描くからである。
ただし喪失体験はエピソード記憶のみによって構成されているわけではない。記憶はエピソード記憶のように意識化される部分としての顕在 explicit
記憶とは別に、いわゆる潜在implicit
記憶がある。そこには主として感情的、感覚的な部分が多く含まれる。愛犬を見送った時の時系列的な記憶は徐々に失われても、愛犬に結びついた情緒的、感覚的なものはより長く残り、私たちを苦しめるだろう。ここの部分こそが一挙には体験されず、当初はそれこそ現実のこととして体験されず、やがて時間をかけて実感され続け、はるかに時間をかけて薄れていくのである。
ところが苦痛な体験はこのような喪失体験のように時間がかかっても順調に失われて行かないものがある。それどころか繰り返しよみがえり、私たちを苦しめるものがある。それがいわゆるトラウマ記憶、ないしは恐怖記憶と呼ばれるものである。