ちなみに私はちょうどこのテーマについて、かつて発表したことがある。それは2018年の分析学会で、「精神分析をどのように学び、学びほぐしたか?」というテーマで発表し、その後原稿化したものである。そこで書いたことを復習しよう。以下はその発表の内容である。
私はかつてあるセミナーで、患者からのメールにこたえるかどうか、という話題が持ち上がった。そのセミナーは複数の講師が担当していたが、先生によりその問いに対する答えが異なっていた。そのセミナーでは私が答えるべしと言って、別の先生が答えるべきでないと言ったのか、その逆だったかはわからない。しかしそれを聞いていた聴衆の方から苦情があった。講師が違うことを言っているので混乱をしたという苦情があった。
私はこの苦情を聞いた時一瞬「しまった、受講生を混乱させてしまった」と焦った気持ちを、別の自分が突っ込みを入れているのを感じた。「ホラ、こここそ皆さんに学ぶという事の意味を伝えるときじゃないか。」と。そこで私はこの苦情について、次のような言い方をした。
「異なる先生が違うことを言うというのは日常茶飯事です。臨床の場でも起きることです。そして異なる専門家が違う意見を言うという事は、そこに正解はないという事を表している。これからのみなさんの課題は、どちらの言い分がすんなり来るかを判断し、ご自分で判断することです。もちろんどちらに決めなくてもいい場合も少なくありません。意見が分かれるのはほとんどがケースバイケースのことですから。」
そしてこのプロセスが「学びほぐし」と言われるものだと思う。ちなみに似ている概念として、フロイトの学習 learning と事後学習 after-learning という区別があり、少し関連性がある。ともかくも精神療法家になるために必要なのは、この学びほぐしの典型的なものなのだ。学びほぐしという言葉は、哲学者である故鶴見俊輔さんがかつて作った言葉である。ヘレンケラーが沢山学んでは learn 脱学習した unlearn と言ったのを聞いて、即座に「学びほぐし」という言葉が浮かんだのだという。ちょうど編まれたセーターの毛糸をほぐして自分自身のセーターを編む、というニュアンスをそこに込めたようだ。
ではそもそもどうして学びほぐしが必要かと言えば、ある理論はそれを作った人の思い付きや気まぐれがかなりの部分を占めているからだ。ここではとくに精神分析を考えよう。