日本における子育てと「甘え」
日本ないしはアジアにおける子育てを欧米型との対比で論じることはすでに多くなされている。キリスト教においては子供は悪魔であり、厳しいしつけが必要であるという考えが一般的である(Jolivet, 2005)とされる一方で、アジアでは子供は天使であるという見方が多い(Chao and Tseng 2002)とされる。本論文の冒頭に紹介したベネディクトの文章にも表れているが、おそらく多くの西洋人にとって、日本の子育ては甘やかし overindulge と思われるであろう(Okano, 2019.)
日米の比較研究として有名なベネディクトの「菊と刀」には以下の趣旨の内容が描かれている。「赤ん坊が泣くと、日本人の母親ならすぐ抱いてお乳を与えて泣き止まそうとするが、西洋人は決まった時間にしか乳は与えないでないままでほうっておく」ルース・ベネディクト 菊と刀The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture.1946」
子供に対する寛大さや自由さを許容する傾向がいつの時代から存在するかを知る一つの手がかりとして、江戸期に日本を訪れた西欧人の記録が参考になる。それによれば、全く自由で放任の日本人の姿である。そこでは町全体が子供の遊び場のようになっていて、車夫も子供に道を譲り、叱ったりするといった様子を見せないという。オールコックはそれを「子供の楽園」と称し「町はほぼ完全に子供たちのものだ」といったという(渡辺、p.388,389)。また日本では子供が大人により鞭打たれたり折檻されたりするのないのを見聞した西洋人はとても驚いたとされる。渡辺京二 (1998)「逝きし日の面影」葦書房.
しかしその子供は年下の子が生まれた時点で今度は世話をする。やがて長ずれば、今度は子供に道を譲るというシステムが伝統的に存在していたらしい。
私の研究分野である精神分析では、土居の「甘え」は一つの鍵概念として扱われる。甘えは「甘える」という動詞の名詞形であり、「甘える」とは「他者のやさしさに頼ってそれを前提とすること to depend and presume upon another's benevolence’.」 (Skelton,R.(Ed.).2006. The Edinburgh International Encyclopedia of Psychoanalysis).などと表現される。この用語は土居により1950年代に導入された。これは日本人の対人関係を描くために導入されたが、無意識的には文化を超えて起きているものであると考えられた。土居によれば、甘え、すなわち愛されることに進んで浴することは治療の初期からみられ、転移の核になるものであると考えた。彼は健全な形の甘えとその結果としての成熟した依存関係が極めて大切であると考えた。
土居の甘えの概念は海外に大きなインパクトを与えた。西欧においては分離個体化による自己の達成こそがその個人の成熟と見なされる傾向にあったからだ。精神分析においては、子供の独立はエディプス的な状況で醸成、促進される。そこでは懲罰的な父親が息子が母親と親密になることを阻止する。父親に向けられた敵意は去勢不安を引き起こすが、それは母親に対する欲望の結果として自分が去勢されてしまうのではないかという恐れである。その不安と対処するために、息子は父親と同一化し、母親への願望を他の女性への願望に置き換える。しかしこの理論は日本の場合にはあまり当てはまらないことが多い。なぜなら甘えに基づいた母子の緊密な関係性は社会で受容されているからだ。甘えについては後にまとめて論じるので、ここまでにとどめたい。