ところで嫌悪の精神病理ということだが、大したことは書けないことは目に見えている。すぐにブラックボックスに行きついてしまい、誰にも確かなことは言えないというのは目に見えているからだ。それはこういうことである。
「快の錬金術」でも書いたことだが、生体は嫌悪を催すものを回避するように、あるいは快を得られるものを志向するようにできている。それを「Cエレ君」の例を使って描いた。Cエレガンス(線虫)にとってその生存を脅かすものに対して不快と感じ、促進するものを快と感じて接近する個体がいたとしたら、結果的にそのような傾向を持った個体は生き延びて繁栄していく。適者生存だ。だからCエレ君がたとえ快や不快を「いやだ!」とか「気持ちいい!」とか感じていないとしても、結果的に彼は回避や接近行動を起こすだろう。そうやってこそ生き延びてこられたからだ。しかしその中枢神経を調べるならば、不快な時はある神経が興奮し、快の時はそれとは別の神経が興奮しているはずだ。なぜなら両者の体験はかなり敏感にその個体により「体験」されるであろうからだ。そしてその際に異なるクオリアを体験しているに違いない。痛い、とか、気持ちいとか。だから「痛い」や「気持ちいい」は幻であって差し支えないのだ。ということは嫌悪にも快にも実体は伴わないことになる。
さてこのように書くと、先天性無痛覚症の人の体験はかなり異色のものとなるであろうことがわかるはずだ。先天的に痛みを感じない人は、生傷や骨折などを頻回に体験する。痛みにより外傷的な状況を回避することができないからである。それについては当事者の方々によるHPがあり、そこから多くのことを学ぶことができるので、それを時々参照しようと思う。
ところで話は飛ぶが、私は最近幸福感について考えるうえで、この快、不快の問題が大きな関与の仕方をしているように思える。日ごろから心地よさを体験することは、幸福感に深刻な影響を与え、ある意味では損なっているのではないかと思う。私たちは一世紀ほど前の人間に比べて格段に快適さを味わっているのであるが、私たちは彼らに比べて幸福かといえば恐らくそうではない。快適さは私たちの感覚のある種のものを鈍麻させる可能性がある。逆に言えば苦痛や嫌悪はいわばスパイスとして必要なものではないか、ということである。