何の前触れもなく、「嫌悪の精神病理」という依頼が舞い込んだ。「えー? 嫌悪の精神病理?そんなこと言われたって」、というのが最初の反応である。そもそも私は嫌悪の専門家ではないし、そんな論文は書いたことがない。しかしそう思いながらもこれは興味が尽きないテーマである。私は「報酬系オタク」を自任している。「快の錬金術」という本を3年ほど前に出版して全く売れなかったトラウマを引きずっているわけだが、それのネガについての議論だからだ。そう考えるとあの本を奇特にも読んでいただいた編集者の先生の誰かが私にこの話題を振ることを思いついたのかもしれない。まだ方針は全く定まっていないが、書いていくうちに結局はいつも考えているテーマにつながるだろうという楽観的な気持ちで始める。
まず私たち生命体は明白に、あるものを嫌悪し、それを回避しつつ生きている。1950年代に報酬系が発見されるまで、心理学は「生命体は不快を避ける」という命題に従っていたというのが面白い。動物の脳をいろいろ突っついても不快刺激にしかならなかったかららしい。だから脳のどこかに不快を感じさせる部分があるだろうという予想はついたわけだ。ところが快感の中枢(報酬系)が見つかって、心理学者や哲学者や脳科学者は驚いたわけだ。でもどうしてだろう?「生命体は快を求め、不快を避ける」のほうがよっぽど直感的にわかるのではないだろうか。
私の想像だが、人類は昔からあまり強烈な快感を味わうことがなく、むしろ不快を避けながら生きてきたのではないか?だから脳のどこかのボタンを押したら強烈な快感が味わえるという発想がなかったのではないか?しかしそれにしては、フロイトの時代からモルヒネもあれば、コカインもあった。フロイト自身がコカインの体験を通じて、快感中枢の存在を思いついてもよかったのではないか。しかしフロイトはかなり単純な発想のほうを選んだ。つまり「快は不快のネガである」という命題である。ここがフロイトの不思議なところだ。フロイトはコカインやモルヒネを吸引することで幸せになれることを自分自身の体験で知っていた。それなのにフロイトの快のモデルはあくまでリビドーの発散というものだった。つまりリビドーがうっ滞して不快が高じた際に、それが一気に放出されると快感につながるというわけだ。
もちろんリビドー発散論には一理ある。私の快は、不快の解消によってももたらされるからだ。排泄、摂食などを考えればよく分かることである。モルヒネだってきわめて苦痛な渇望状態 craving になれば、その使用による解消はそのものが快だ。しかしそれなら初回のモルヒネやコカインの使用は、もともと渇望がないわけだがしっかり快感の体験につながる。だから賢明なるフロイトがコカインによる多幸感をこれにより説明したとはどう考えても思えない。まあフロイトにこだわってもあまり意味がないか。
しかしこのように書いているうちに、私が精神科医になった当初に最も興味を持ち、やみくもに書いていたのが、まさにこのテーマについてだった。土居先生に提出してバッサリ否定されてしまった文章である。その時のテーマは、「なぜ人は将来の快のために、現在の不快を耐えることができるか?」であった。今だったら例の「マシュマロテスト(子供に目の前の一つのマシュマロを一定時間食べずに我慢できたら、二つあげる、という課題を課す)」などに関する研究なども引いてくるかもしれないが、当時はだれかの研究を引っ張ってこようなどという発想もなく、ひたすら考えていたのである。こう考えると「嫌悪の精神病理」というテーマをよくぞいただいたものである。