正常の健忘:日常の出来事の軽度の想起困難や幼児期早期の出来事の健忘は正常人でも起きうる。しかしそれらの出来事は重大な心的ストレスやトラウマに関することではない。
心的外傷後ストレス障害(PTSD), 急性ストレス障害(ASD):PTSDにおいてはフラッシュバックや鈍麻反応などの診断基準を満たすだけでなく、トラウマ的な出来事の記憶が断片的となったり健忘されたりする場合には解離性健忘の診断も下る。ASDにおいてもストレス因となった出来事に対する一時的な健忘を含むことがある。
解離性同一性症(DID): DIDにおいても、部分的DIDにおいても、それを体験した人格がその後に背景に退くことにより、解離性健忘に類似した臨床像を呈することがある。ただしその場合はその記憶を保持している明確な交代人格が存在することが確かめられることで解離性同一性症の診断が優先される。
神経認知障害群: いわゆる認知症に伴う健忘の場合は、器質因によるその他の神経学的な所見(認知,言語,感情,注意,および行動の障害)の一部として埋め込まれる形をとる。解離性健忘では,記憶障害は自伝的記憶に限定され、それ以外の知的および認知的機能は特に障害されないことが特徴である。
物質関連障害群: アルコールまたは他の物質・医薬品を使用した際には、それらの影響下において、いわゆる「ブラックアウト」(一定の期間の出来事に関する記憶を失うこと)という現象が起きることがある。
頭部外傷後の健忘: 頭部外傷により健忘が生じることがある。その特徴としては,意識消失,失見当識,および錯乱,等が同時に見られることである。さらに重度の場合には,神経学的徴候(例:神経画像検査における異常所見,新たな発作の発症または既存の発作性疾患の著しい悪化や視野狭窄,無嗅覚症)が含まれる。
癲癇: 癲癇の発作中、または発作後に無目的の放浪などの複雑な行動を短時間に示すことがある。解離性遁走の場合はより目標指向的で、その期間も数日間~数か月間と長く続く傾向にある。
一過性全健忘(TGA): 初老期に多く、前行性健忘を伴って突然発症し、長くとも24時間以内に回復する。発作中も自分のアイデンティティの認識は保てるが、過去の数分に起きたこと以外は思い出せず、また新たな記銘も障害される。脳血管障害のリスクとは無関係と考えられ、また予後も良好とされる。あくまでも新しいことの記銘ができないだけであり、過去のことは想起できる点が解離性健忘と異なる。
解離性健忘の治療
ここでは全般性健忘や解離性遁走に対する治療について主として論じる。便宜的に初期、中期、後期の三段階に分けて論じたい。第一期は安全や安定の確立,第二期は記憶の再構成、第三期 リハビリテーションや社会復帰が目標となる。
第一期:安全や安定の確立
第一期では当人の置かれた安全や安定の確立を目指す。可能な限り責任ある仕事や役割を離れ、ストレスのない安全な環境で過ごすことを心がける。その際に当人や家族に対する情報提供や心理教育、今後の治療方針についても、必要に応じて伝える必要がある。そこには解離性健忘がトラウマやストレスをきっかけに起きる傾向にあること、ただし時にはそのような明らかなトラウマの体験が思い当たらない場合もあり、原因を必要以上に追究するべきではないことも伝える。そして解離性健忘は予後が比較的よく、繰り返されることも少なく、基本的には社会復帰を目指すことが可能であることを説明する。また記憶は何年かたって突然戻ることもあるが、それを期待したり記憶を甦らせようと本人や周囲が躍起になることは効果があまりなく、むしろ当人のストレスを増すことになる可能性を伝える。当人には記憶の欠損以外に精神科的な症状は見られない場合が多いが、復職や社会復帰は急がずに、当人が好きだったり興味を持てたりする趣味その他の活動をしつつ平穏な毎日を送ることを心がける
この時期には家族も当人への対応に戸惑い、疑問に持つこともあるために、家族へのサポートも重要である。当人が忘れたふりをして家族への責任を回避しているのではないかと疑う家族には、解離性健忘という疾患についての理解を促し、演技ではないことを伝える必要も生じてくるであろう。
第2期 :外傷記憶の想起とその処理
<個人年表づくり>
当人の社会復帰に応じて、当人の過去の生活歴の中で知っておいたほうが適応上好ましい出来事は、知識として獲得したほうがいい場合がある。本人の通った学校やそこでできた友達、当時はやっていた事柄、社会状況などについては、治療者が力を貸しつつたどるようにし、個人年表を作ることも助けとなる。ただしそれが当人のストレスにならない限りにおいてである。またその過程で不可抗力的に過去のトラウマ的な出来事が想起された際はそれに応じた治療的な介入も必要となろう。
なおその際健忘が生じた当時の生活や仕事の環境をたどる中で、当人のストレスになった可能性のある状況が明らかになり、今後はそれを回避しつつ人生を送る必要があるとの洞察が得られることもある。例えば技術職として適応していた人が昇進して管理職を任されたことでストレスが高じて解離性遁走が引き起こされた場合などである。なお解離性健忘が何らかのトラウマ的な出来事に引き続いて起きたことが明らかな場合は、自らのトラウマ記憶に向き合い,それにまつわる不安や恐怖を和らげ,それを克服することがこの段階での中心となる段階でもある。これらの活動をしつつ、徐々に健忘以前の生活スタイルに復帰することを促す。病前に興味のあったこと、新たに関心を見出したことについては残存しているスキルを再び用いることが出来るという意味では有効であろう。しかしそれがトラウマと結びついている場合は当然ながらその限りではない。
第3期:リハビリテーションや社会復帰
これまで不安や恐怖によって避けていた活動についても積極的に挑戦し、様々なストレに対してうまく対処することができるようになることを目指す。当人の社会的な能力は保たれていることが多く、特に過去に獲得して失われていないスキルや能力を活用して社会復帰につなげる努力は重要であろう。但し発症前に持っていた趣味や嗜好が取り戻せないことも多く、以前に適応していた職業への復帰を目指すことは必ずしも目標とはされないであろう。抑うつや不安などの症状が見られない場合は、健常人と同じレベルまでの社会適応を目指すことが出来るであろうが、当人にとってストレスであるような状況を回避したうえでの人生設計が望まれる。