ただしその間にこの問題に関して一つの議論を提示した研究者Rothbaum(2000)の理論を挙げたい。RothbaumらはSSPが日本において適応されることの困難さについて説いた。彼らは愛着理論は西欧社会以外の文化、特に日本文化における親子関係を正確に説明することが出来ないと主張した。(Rothbaum et al. (2000)
その説によると、エインスワースたちは愛着の前提として親の持つ敏感な応答性 sensitive responsiveness を考えた。愛着理論では、赤ん坊は探索行動とアタッチメント行動の間のバランスが存在し、そこで養育者が、「敏感性」(子供の愛着欲求に敏感に応答する力)を有する必要があるとされる。このバランスが安定しているか不安定化が問題になってくるのだ。そしてその安定性を知るためのテストがSSPということになる。ところがこの肝心の敏感性の性質に文化差があることをRothbaumは説いた。米国における応答性は、子供が表現するニーズに対して向けられているが、日本においては、子供のニーズが表現される前に、先取りしてそれに対応することの応答性が問題にされるという。そして後者のような親の態度は子供を身体的に近い距離に置き、依存を促進する一方で、表立ったニーズの表現を抑制する。ところが米国においては、その様な態度は不安定な愛着を助長してしまうと考えられるという。
Rothbaum et al. (2000) Attachment and culture: Security in the United States and Japan. American Psychologist, 55(10), 1093-1104.
わかりやすく言えば、米国では赤ん坊からのシグナルという情報への敏感さであり、日本では情動的親密さに基づく敏感さであるというのが彼の主張だ。さらには「日本の敏感性は赤ん坊の社会的関与に対する欲求に敏感であり、アメリカの敏感性は赤ん坊の個体化に対する欲求に敏感であると思われる」(Rothbaum, Weisz, et al. 2000: 1096―1097)と表現し、この問題が文化的な含みを持っていることを示唆する。(「アタッチメント、『甘え』、自分 — アタッチメントの文化研究における『甘え』の取り扱いに関する一考察」 杉尾浩規著)
ちなみにこのRothbaum の議論はある意味では重要な点を指摘しているが、種々の批判を受けることとなった。彼の理論には実証性が十分でないこと、特に日本の研究においても敏感さと愛着の安全さとの関係は実証されているという点を実証されなくてはならないとされた。ちなみに、この「待つか、先に与えるか」の議論、研究によって差があるという事で、Mesman et al.(2016)によれば、現在の母親はむしろ他の文化と近い見方をしているという結論が得られたという。
ところでRothbaum の理論は本論文でも取り上げる土居の甘え理論を援用している点が特徴とされる。日本的な「敏感さ」は甘えを基盤とした日本文化に特有のものであるという主張である。しかし後にみるように、土居によれば甘えは人類に普遍的だど考えた。西洋でも東洋でも甘えという基盤は存在する。バリントの一次的対象愛(愛されたい、という受け身的な愛情)がその証左だ、という立場だ。その意味ではRothbaumが甘えは日本特有と考えている分は土居理論の曲解ということになる。ただ日本における母親の敏感さは、非言語的で情緒的で、先回り的であるという意味で西欧のそれとは違う、という指摘はその通りであろう。さらには土居自身がその著作の中で、日本人が他者のニーズに敏感であるという理論を展開しているフシもあり、この議論は結構根が深いともいえる。先回り的ということではウィニコットがそれを、子供の幻想を守る母親の役割として語っていたとは思うが、この点についての考察はあまりなさそうだ。
ちなみにRothbaumは最近さらに研究を発表し、自らの主張に関する実証的な裏付けを示している。
Rothbaum,F., Nagaoka, R, Ponte, IC(2006)Caregiver Sensitivity in Cultural Context: Japanese and U.S. Teachers' Beliefs About Anticipating and Responding to Children's Needs. Journal of Research in Childhood Education. 21;23-40.
彼の論文は要するに西洋では子供の明示的なニーズの要求に対する敏感さであるのに対し、日本では子供のニーズの非言語的で微妙な表現を予期anticipate することの敏感さであるという違いがある。この違いをつかむための実証的なデータは今のところない。そこで学童期前の先生を米国9人、日本11人を集めて実験を行った。すると米国の先生は明示的なニーズにこたえるのに対し、日本の先生は、子供のニーズを予期する方を選んだ。そしてアメリカの子は自らに依存し、自分たちのニーズを明らかにすることを教えられる一方では、日本の子供は先生に依存することを教わる一方で、先生は子供のニーズを明らかにし、それを予期する必要があるという違いが明らかになったという。
ところで日本では依存を促進し、欧米では分離個体化を促進するという二分法に関しては、1990年代の初めに、Markus とKitayama見解として一般化されている。彼らによれば日本と欧米では二つの異なる自己構成の仕方が示されるとする。日本では相互依存的な自己感、欧米では独立した自己感である。
精神分析的アプローチと土居の甘え理論
ところでRothbaum が提起した問題、すなわち母親的な態度が子供が助けてほしいというサインを敏感に感じ取るか、それとも先に手を差し伸べてしまうか、ということをめぐる一つの議論は精神分析の世界においては歴史的なものともいえる。それはいわゆる「最適な欲求不満optimal frustration」 か、それとも「最適な現前Optimal presence」ないしは「最適な提供optimal provision」 か、という議論である。精神分析理論を創始したフロイトの基本的な考えは、患者の欲求充足に関しては抑制的であった。フロイトのいわゆる「禁欲規則 rule of abstinence」は、「治療者は患者からの愛の要求を満たしてはならない」とした。それは欲動がすぐに満足してしまうと、患者は自分自身の欲求についての洞察を得る機会が奪われるからということを根拠にしていた。このような考え方は古典的な精神分析的考え方の主流を占め、後に共感の重要性を説いたコフートにも同様の考え方が見られた。
それに対してウィニコットはこの欲求不充足はある意味で必然的に生じてしまうという考え方を示した。彼は最初は赤ん坊は自分の欲求を母親が魔術的にすぐに満たしてくれるものと錯覚し、万能感に浸ると考えた。しかし赤ちゃんがその自我機能が成熟していく段階で自分の欲求がすぐには満たされないということを知り、脱錯覚を起こし、現実の在り方を知るようになると考えた。この錯覚が生じる段階においては、親がおっぱいを差し出すことが先か、赤ん坊がお乳を欲しいというサインを送る方が先かということは問われない。それはある意味では母子の間で自然と生じることがからであり、だからこそ子供はそれを「錯覚」するのである。
実際の子育ての場面を想像した場合にこの点は容易に理解されよう。母親は赤ちゃんが機嫌が悪いのに気が付き、おっぱいを欲しがっているかもしれないと思う。そういえば前回の授乳から少し時間がたっている。赤ちゃんがおなかがすいてぐずっているのか、それ以外の理由で機嫌が悪いのかはわからない。上述の「敏感さ仮説 sensitiveness hypothesis」仮説によれば、このとき欧米人のお母さんの頭にこんな疑問が浮かぶことになるだろう。「もしおなかがすいていないのにおっぱいをあげたら、この子の『おっぱいちょうだい』という明確なメッセージを出す機会を奪うかもしれない」。他方日本人のお母さんは「おなかがすいているかもしれないから、とりあえずおっぱいをあげましょう」。でも、実際の子育てではこれらの判断がさらにあいまいなことはいくらでもあろう。前者なら「ぐずっていること自体が空腹を明確に訴えているということになるかもしれない。」母親が解釈して授乳につながるかもしれないし、後者であれば「でもさっきおっぱいをあげたばかりという気もするし、それに今別のことで忙しいし」となると結果的に授乳行動は遅れるであろう。そしていずれにせよ完璧に赤ちゃんのニーズを把握することのできるお母さんは少ないだろうから、現実的なフラストレーションはいずれの文化でも子供によって不可避的に体験される。それはどんなに細やかに子供のニーズにこたえる母親といても起きることなのだろう。
結局ここで何が言いたいかといえば「マーカスー北山説」の「日本では相互依存的な自己感、欧米では独立した自己感が重んじられる」というのは自己感の両面であり、どちらも必要なのだ、ということである。それが文化を超えて養育の場面で起きてくる過程をWinnicott の理論は示しているのだ。(Winicott はすべてお見通しだった、ということの一つの例である。)