さてそれから30年が過ぎて、初めて札幌でSSPの実験が行われたという。それを次の論文の抄録だけから読み取ろう。
Kondo-Ikemura, K et al(2018) Japanese Mothers' Prebirth Adult Attachment Interview Predicts Their Infants' Response to the Strange Situation Procedure: The Strange Situation in Japan Revisited Three Decades Later Developmental Psychology 54 (11)
「例のA,B,Cの分類は似たような結果になったという。そこでは不安定型の子供のうち両価的な子供が主たる位置を占めた。そして解体型の割合も世界と同じレベルだった。そして解体型の子供の反応は、母親の未解決の心的状態によって予測されていた。」
駄目だ、ほとんど意味が通じない。結局本論文を購入しろ、という事か。そこでほかのリソースを探す。次のものが見つかった。
Behrens, K (2016) Reconsidering Attachment in Context of Culture: Review of Attachment Studies in Japan. Online Readings in Psychology and Culture. International Association for Cross-Cultural Psychology. Volume 6 Developmental Psychology and Culture. Issue 1 Culture and Human Development: Infancy, Childhood and Adolescence.
この論文には次のような説明がある。日本では実は1984年に一度SSPが行われて、それは世界の研究とあまり変わらなかったので問題は起きなかったという。札幌での三宅のグループの研究では、大部分が安定型であったという。まあこれは良かった。しかし例の両価型の子供が多かったという三宅グループがSSPに対する挑戦状を突き付けたわけである。三宅先生たちの主張は、SSPにおいては軽度のストレスが子供に掛けられるという前提なのに、日本においては、それが高度のストレスになってしまうのだからこの手法は使えないのだ、という事になるわけだ。 The SSP therefore would bring about severe stress instead of mild stress that Ainsworth et al. (1978) intended to induce. This is the reason that all insecure children in Sapporo were unable to settle down, thus unable to explore, and were judged as insecure-resistant.
ちなみにその後日本の事情を伝える際に甘えの議論が持ち出されるようになったとも書いてある。
ちなみにRothbaum (2000)という人の議論が話題になったらしい。エインスワースたちはいわゆる「敏感さ仮説」を持っており、子供のニーズに敏感に反応する親が愛着をはぐくむが、日本の親はそのニーズの表現の前に、すでに与えてしまっているのが良くないのではないかという議論だという。これについては決着がついていないという。
Rothbaum et al. (2000) Attachment and culture: Security in the United States and Japan. American Psychologist, 55(10), 1093-1104.
ただしこのRothbaum の議論はいろいろ批判されたようだ。彼の理論には実証性がないこと、そして日本の研究においても敏感さと愛着の安全さとの関係は実証されているという点を見逃しているという。Rothbaumは理論だけであり、彼の説の正しさを証明するためには、日本人の母親が敏感さにおいて低いという事を証明しなくてはならないという。(そうだろうか?)ちなみに、この「待つか、先に与えるか」の議論、研究によって差があるという事で、Mesman et al (2016)によれば、現在の母親はむしろほかの分化と近い見方をしているという結論が得られたという。
ところでこの論文を読んでいるうちに、大事なことが書いてあった。私がこの論文で示そうとしている、日本では依存を促進し、欧米では分離個体化を促進するという二分法は、cliché であり、もう言い古されているというのだ。次のような分を読めばわかる。Markus and Kitayama (1991) presented a ground-breaking approach to depict two distinct concepts of self-construal, Japan representing the interdependent sense of self, and the U.S. or other Western countries representing the independent sense of self
マーカス、北山の画期的なアプローチによれば、二つの自己構成の仕方が示された。日本では相互依存的な自己感、欧米では独立した自己感である。
ということでこの長い論文を何度か読みこなそうとしてみたが、どうも歯切れが悪い。結局愛着の問題を西洋と日本で比較しようという試みは暗礁に乗り上げているようなのだ。それは文化の違いにより同じ尺度を用いることの困難さがどんどん立ちはだかり、例えばAAIを用いようとしてもそれを正しく日本語に訳せているかどうか、というレベルでの問題がすぐ起きてしまうという。
ただここで私が一つ興味深かったのは、母親的な態度が子供が助けてほしいというサインを敏感に感じ取るか、それとも先に手を差し伸べてしまうか、ということをめぐる一つの議論を含んでいたらしいということである。この議論は精神分析の世界にもあり、どちらが正しいかの結論など出ていない。精神分析における同様の議論はoptimal frustration か、Optimal presence, あるいはoptimal provision かということになる。適度の飢餓を与えるべきという議論はフロイトにもコフートにもある。他方ウィニコットは脱錯覚は自然と起きてしまうという考えだ。私はウィニコットの考えに同意する。実際の子育ての場面を考えよう。赤ちゃんがおっぱいを欲しがっているかもしれない。そういえば前回の授乳から少し時間がたっている。赤ちゃんはぐずっているがおなかがすいているからなのか、それ以外に機嫌が悪いのかわからない。このとき欧米人のお母さんの頭にこんな疑問が浮かぶかもしれない。「もしおなかがすいていないのにおっぱいをあげたら、この子の「おっぱいちょうだい」という明確なメッセージを出す機会を奪うかもしれない。」他方日本人のお母さんは「おなかがすいているかもしれないから、とりあえずおっぱいをあげましょう」。
これが「敏感さ仮説 sensitiveness hypothesis」で起きていた議論だが、私は「どっちでもええやん」と考えてしまう。実際のお母さんはこんなことはゴチャゴチャ考えずにその気になったらおっぱいを差し出すし、ほかのことにかまけていたらそのタイミングが遅れるであろう。そしていずれにせよ完璧に授乳するお母さんは少なくないだろうから、現実的なフラストレーションは子供によって体験される。それはどんなに細やかに子供のニーズにこたえる母親といても起きることなのだろう。というより細やかにこちらの必要としているものを差し出してくれる母親は、子供はそれをかなりウザったく感じて、早々とその元を離れたく思うかもしれない。いろいろと世話を焼かれることのフラストレーションというわけだ。
結局何が言いたいかというと、こういうことだ。「マーカス北山説」の「日本では相互依存的な自己感、欧米では独立した自己感が重んじられる」というのは自己感の両面であり、どちらも必要なのだ、ということである。