このエッセイの結論としては以下のようになろう。
さてここまでエッセイを書き進めてやっぱり私の思った通りだということになった。やはりハーマン先生のCPTSDの概念の提出は偉業であった。慢性のトラウマを体験した人々の精神障害についてのプロトタイプとして掲げられたCPTSD概念には大きな意義があり、ICD-11への形成により、この問題に対する啓発という目的は達成された。ただしこれは一つの出発点かもしれない。トラウマ理論の持つ様々な課題はまた別のところで論じたいが、私たちはトラウマに対する精神科身体の反応についてようやくその理解の端緒にたどり着いたと言える状態ではないか。
その一方でハーマンさんの「CPTSD≒従来のヒステリー≒DID、BPDという図式はわかりやすいが単純化されすぎていたと言わざるを得ない。私の個人的な意見としても、DIDとBPDの方々は、性格特性という意味では真逆なのである。私にとってはBPDの人はある種の生得的な何かを持っている。それがトラウマなどによりかなりそれが修飾されてしまうという印象を受ける。
ちなみに私は最近提唱されているいわゆるhyperbolic temperament 説を追いかけたい。以下が参考文献である。
Christopher J. Hopwood,
Katherine M. Thomas, Mary C Zanarini によるHyperbolic temperament and borderline personality disorder Personal
Ment Health. 2012 February 1; 6(1): 22–32.
Zanarini MC, Frankenburg FR. The essential
nature of borderline psychopathology. Journal of Personality Disorders. 2007;
21:518–535.)
簡単に解説するならば、ボストンのZanarini グループが1900年代末に提唱した説であり、
彼女が Frankenburg 先生と協力してボーダーラインの病理のエッセンスとして、Hyperbolic temperament による内的な心の痛みが特徴であると説いた。(ちなみにhyperbolic は訳せない。双曲線、とか誇張された、という意味だが、「Hyperbolic
temperament 誇張気質」となると、とんでもない誤訳扱いされるだろう。そこでHTとしておこう。(どうやらこの概念、まだ誰も日本で紹介されていないのか、ネットで検索ワードとして「hyperbolic, 境界」としても「hyperbolic, ボーダーライン」でも何もヒットしないので、誰かが訳したものを使うことができない。
ともかくもこの2012年の論文を読むと、結局こういうことが書いてある。BPDに関しては気質かそれとも成育環境(もちろんそこには幼少時のトラウマも含まれることになる)かということが言われてきたが、結局両方、ということが分かってきている。そしてこのHTとしてどのように説明されているかと言うと、以下の通りだ。「容易にネガティブな感情を体験し、そして容易に立腹し、他者にいかに自分の内的な苦しみが大きいかを訴えることで、持続的に生じている怒りumbrage を沈めようとすること“easily take offense
and to try to manage the resulting sense of perpetual umbrage by persistently
insisting that others pay attention to the enormity of one's inner pain” (Zanarini
& Frankenburg, 2007, p. 520).
さて問題はこれが気質なのか、ということだ。もしそうならビッグファイブとの関連性は? ところがICD-11の構成を見るとある程度その答えがそこにある。パーソナリティのディメンションモデルは、NADDDの5つのパーソナリティ特性を挙げている。つまりネガティブ情動、制縛性、脱抑制、非社交性、離隔、の5つである。しかし何とそこに精神病性と、BPD性を加えて7つにしている。つまりBPDは別格の、一つのパーソナリティ特性なのだ!!これはBPDについてはディメンショナルモデルでくくることは出来ないという表明とは言えないだろうか?
皆さんはこのエッセイを読んでも当然納得しないかもしれないが、BPDとは通常のパーソナリティの誇張されたものとも言えない、しかしトラウマについてにかかわっているとも限らない(と言っても明らかにトラウマにより悪化することは確かである)捉えどころのない状態なのだ。そのことを、今回のCPTSDの市民権の獲得の機会に、改めて私たちに思い至らせたのだ。