では私が考えるCPTSDとは何か。それは繰り返しトラウマを体験したという経歴とそれによる対人関係上の困難さにより特徴づけられるとともに、悲観的な将来のイメージを有し、抑うつ的な性格傾向を有するであろう。そしてそれはDSOによりかなり特徴が抽出されている。ちなみに例の公式を示そう。
AD: affective
dysregulation 情動の調整不全
NSC: negative
self-concept 否定的な自己概念
DR: disturbances
in relationships 関係性の障害
私はこれではなりの部分が尽くされていると思うがこれだけで十分かという疑問が残る。トラウマによる直接の反応としての症状の記載だ。私としてはPTSD症状か又は深刻な解離症状又は自傷行為の項目の中からいくつか、という極めてDSM的な診断基準を考える。というのもやはりCPTSDは症候群なのだ。トラウマへの反応がフラッシュバックであったり、解離だったり、人それぞれで異なるために、そのような診断基準にせざるを得ないであろうと思う。
もう少し自由連想を語るならば、CPTSDの概念が掲載されたのはいいが、その内容がPTSDに引っ張られすぎではないかと思うのだ。PTSDの複雑型、ということでPTSDの診断基準にプラスアルファしたものをその診断基準にしたというわけだが、それはPTSDの持つ解離にあえて触れないという特徴を踏襲してしまうことになる。せっかくいい概念なのに解離や自傷について触れないことがむしろ不自然で、それならDSM-5の「PTSDの解離タイプ」のほうがわかりやすいのではないかとも思ってしまう。ただしこちらのほうもPTSDの基準を満たすことが前提となる。やはり「PTSD派」寄りの概念ということか。もっと言えばPTSDというクライテリアをパスしない限りCPTSDの診断が下らないというのも問題ではないか? 先ほどのDIDの患者さんの一部はPTSDの基準を満たさないという点が問題なのだ。そうするとCPTSDのPTSD部分にも手を付けなくてはいけなくなり、かなり議論は複雑になってしまうのでこれ以上は止めよう。
私はトラウマに特化した精神療法的なアプローチは非常に重要であると思うし、実際にTF-CBT(トラウマに焦点づけられた認知行動療法)やPE(持続エクスポージャー療法)のような治療法が提唱されている。しかしトラウマ治療に一番大事なのは、トラウマをいかに扱うか(あるいは扱わないか)という点に配慮するということである。ここで私は近年杉山登志郎先生が書かれている「複雑性PTSDへの治療パッケージ」(原田誠一編著「複雑性PTSDの臨床」(金剛出版、2021年、p.91~104)に表される主張を例にとり、私の意図することを書いてみたい。
先生はこの論文の中で次のように仰る。「精神療法の基本は共感と傾聴だが、(中略)トラウマを中核に持つクライエントの場合、この原則に沿った精神療法を行うと悪化が生じる。」(p.91)そして受講することでライセンスが得られるような「トラウマ処理が大精神療法になってしまう」ことにも警告を鳴らす。これで力動的な精神療法ならず、TF-CBTもPEもなで斬りにされてしまう。それらの問題点は「フラッシュバックの蓋が開いてしまい収拾がつかなくなる」ことであるとする。その代わりに彼が提唱するのは、「簡易型のトラウマ処理」である。そこでは子供、成人を問わず、一日のスケジュール、睡眠、食事などの健康面に関するチェックを行い、その上で短時間でトラウマ処理を行う。ではトラウマ処理とはどういうものかと言えば、トラウマの記憶の想起をさせないで処理をするという。そのために左右交互刺激と呼吸法を行うという。その際はパルサーという身体に交互刺激を与える器具と呼吸法を用い、身体の違和感をモニターしていくという。
もちろんこの杉山先生の提言は一種の逆説を含んでいるとみていい。「なるべく短時間で、話をきちんと聞かないことが逆に治療的である」(!!!)ということをあまりに正面から受け取ると、混乱してしまう人も多いだろう。トラウマに特化した治療など考えない方がいいのか?と疑心暗鬼になる方もいらっしゃるかもしれない。しかし結局杉山先生が提唱しているのは、トラウマ関連疾患には、「正しいトラウマ治療」を行うべきだというロジックになる。杉山先生の少しprovocative な部分はやり過ごし、その真意は「患者さんの役に立つことをすべし。害になるようなことはすべきでないし、治療者がヒロイズムに駆られてトラウマを扱うことに専心することは控えるべきである」という極めてまっとうな議論である。
以上エッセイ形式なので、好き勝手なことを書かせていただいたが、何らかの参考になることを願う。