CPTSDの概念でボーダーラインとの親和性を強調しすぎた感のあるハーマン理論であるが、彼女の功績はそれでも大きい。それは彼女が長期にわたるトラウマ状況への監禁によりパーソナリティのかなりの変化が生じるというを主張したことである。確かに被虐体験を持つ人の中には自分を罰する傾向が強く、それ自身がパーソナリティの特性になると言っていい。これはICD-11では「否定的な自己概念 negative self-concept(NSC))としてまとめられているが、このネーミングはあまりしっくり来ない気がする。しかしせっかくこれがICD-11に採用されたので、これについて少し整理してみる。
長期間にわたり、逃れられないような状況で虐待を受けるうちに、虐待された人自身が罪深いと思うようになるのはなぜか。虐待者は絶対的な力を持ち、自分を蹂躙する。自分が悪いから虐待されるのだ、という思考はそのような状況において一種の救いとなる。少なくともそれは事態を説明してくれるからだ。
まず「自分が悪いからだ」それは虐待者が「お前が悪い子だからだ」という形でしばしば口にすることであり、それにより虐待を受けるという状況を説明できるからだ。それに時々虐待者は自分を守ってくれ、優しくもしてくれる。虐待者は実は理想化されるべき部分をしばしば備えているのだ。すると虐待者は本当はこんなにすごくて、こんなに優しいのだ、その人にいじめられるのだから、やはり自分が間違っているのだ、という思考はさらに強固なものになる。それにこのナラティブを有することで、葛藤(自分は間違っていず、やはり虐待者が悪いのであるから、それに立ち向かっていけない自分はやはり弱く間違っているのだ)による思考のループから逃れることができる。さらに、もちろんこの思考を持つことによる「実利」はある。自分は悪いと思い続け、虐待者に謝罪し続けることで、虐待が少しは緩和される可能性があるからだ。
さらにDSO(否定的な自己概念)をより強固にすべく、二つの要素が働く。一つは虐待状況への嗜癖であり、叩かれるという状況で脳内快感物質が分泌されることでそれは文字通り心地よい体験になってしまう。オウム真理教で殺人罪に問われ獄中で黙秘を続ける元信者たちは、教団の話になると笑顔になり、幸せそうな表情を見せたという。また洗脳を受けて強制的にISに所属させれ荒れていた少年は、故郷の親の元に戻った後も、つらかったはずのISでの訓練のことを思い出して、そこに戻りたいとさえ思ったという。一般に戦争の際前線で戦いPTSDを発症した人の中には、再び前線に戻ることを希望する人が少なくないという。これらはいずれも被虐待権が嗜癖的な要素を有するという証左である。
そしてもう一つ、服従はある種の私たちの本能でもあるということだ。内沼幸雄先生がドイツの哲学者ニーチェや精神科医クラーゲスの理論を引用して述べていたのは、人間が本来持つ我執性と没我性という二つの性質についてである。他人に打ち勝ち、自らの願望を充足させるという我執傾向は私たちが持つ本能的なものであろう。しかしその逆に人に服従して、自分を滅ぼすという幻想は、人によっては甘美なものになりうる。そしてこれには系統発生学的な理由もあろう。生命の歴史は捕食するか、されるかの歴史でもある。捕食されることも、あるいは死んでいくこともある程度甘美なものでなくては、子孫を残す行為を遂行できなくなる。鮭はボロボロになって川上の河原で産卵した後に安心して死ねないではないか。カマキリの雄などは、交尾の後にメスに進んで食べられてしまうのだ。