2021年3月23日火曜日

エッセイの書き直し 5

  CPTSDで特にハーマン先生が強調するのが、長期にわたるトラウマ状況への監禁ということであり、それに対してパーソナリティのかなりの変化が生じるということである。確かに被虐体験を持つ人の中には自分を罰する傾向が強く、それ自身がパーソナリティの特性になると言っていい。これはICD-11では「否定的な自己概念 negative self-conceptNSC))としてまとめられているが、私なりに整理してみる。

長期間にわたり、逃れられないような状況で虐待を受けるうちに、自分が悪いと思うようになるのはなぜか。虐待者は絶対的な力を持ち、自分を蹂躙する。自分が悪いから虐待されるのだ、という思考はそのような状況において救いとなる。なぜならまずそれは虐待者が口にすることであり、それにより虐待を受けるという状況を説明できるからだ。それに時々虐待者は自分を守ってくれ、優しくもしてくれる。すると虐待者は本当は正しくて、自分が間違っているのだ、という思考はとても魅力的になる。それにより葛藤(自分はやはり正しいので、虐待者に立ち向かっていかなくてはならないのではないか)による志向のループから逃れることができる。さらに、もちろん自分は悪いと思い続け、言い続けることで虐待が少しは緩和されるということもあるだろう。

さらにそこに二つの要素が働く。一つは虐待状況への嗜癖であり、叩かれるという状況で脳内快感物質が分泌されることでそれは一種の快感を伴うことになる。そしてもう一つ、服従はある種の私たちの本能でもあるということだ。内沼幸雄先生が書いていた我執性と没我性の話を思い出す。人に服従して、自分を滅ぼすという幻想は、人によっては甘美なのだ(私には実感がないが)。それはそうだろう。生命の歴史は捕食するか、されるかの歴史でもある。捕食されることも、あるいは死んでいくこともある程度甘美なものでなくては、鮭はボロボロになって川上の河原で産卵した後安心して死ねないではないか。カマキリの雄などは、交尾の後にメスに進んで食べられてしまうのだ。