2021年2月18日木曜日

儚さ 7

 「儚さ」により間接的に表現されているようなフロイトの喪に関する理論は、フロイトの業績全体に生じていた「パラダイムの変換 paradigm shift」の中で生まれ、その背景には彼の人生で生じた出来事による情緒的な旅 emotional journey (Schimmel, 224) が関係しているという見解が Schimmel により示されている。彼によれば、喪とメランコリー以降の一連の論文が一つのカテゴリーとして分類されるべきであり、フロイトはそれまでの性愛論から対象関係や喪のテーマへの関心の移行があったという。

Paul Schimmel (2018) Freud’s “selected fact”: His journey of mourning. International Journal of Psycho-Analysis, 99(1):208-229
 フロイトの「悲哀とメランコリー」は、従来はフロイトがその一部を破棄したとされるメタサイコロジーの一連の論文の一つとされると考えられていたが、Schimmel はこの論文が「戦争への失望と私たちの死への姿勢」(1915)や「戦争に関する時評」(1915)や「儚さ」(1916)と一緒に分類されるべきであるとする。つまりこれらはフロイトによる新たなメタサイコロジーが生まれたことを意味し、そしてそこにはフロイト自身が人生の中で経験したいくつもの喪失や喪の体験が関係していたとする。当時は第一次大戦がはじまったばかりであったが、彼の楽観的な考えをよそに戦争は拡大し、彼の長男のエルンストも徴兵される。フロイト自身も1914年後半にうつ状態に陥る(p216)そしてこの時期のフロイトの喪の作業には、ユングとの決別も、フロイトの義兄エマニュエルの1914年の死も大きく影響していたとされる(Anzieu, Masson,225)。

Schimmel  によれば、「儚さ」の論文に出てくる二つの主張は、フロイトの中にいる二つの存在を表していた可能性があるという。主張1は詩人の口を語っている、メランコリーに陥っていたフロイトであり、主張2は、喪の作業により失われたものを乗り越えた後のフロイトであるという(P.217)。すなわちこの論文は喪の作業を行う前と後の両方のフロイトを表しているのであり、このように考えた場合は、主張12の間に見られる矛盾はそのままフロイトの中に共存していたことになろう。

Schimmel はフロイトが発見したのは、「喪の中心テーマは、喪失による精神的な苦痛を耐える能力こそが、心的な現実に向き合い続けるための条件である」ということであり、これこそが彼が臨床的な現実から出発した発見であると述べる。The centrality of mourning, that is the capacity to tolerate the psychic pain of loss, as a condition for maintaining contact with psychic reality, is a clinical fact.(Schimmel, p.225) 

そこでは喪を行う能力 capacity to mourn は一つの達成であるというフロイト自身の体験と学習があったのだという。Schimmel はこう説明する。フロイトは喪が出来ないことは、その人の過去の性愛的な失望 ”erotic” disappointmentという名のトラウマがあったからだと思っていた。喪を回避する人はこのトラウマによる痛みのせいだった。ところがフロイトは物事の儚さについての現実を認識し受け入れることが喪を行う能力につながり、それが結局は情緒的にも優先されるということを身を持って体験することとなった。そして性愛理論に基づいた快感原則に現実原則を組み込む必要を感じた。それが1920年の快の二原則の提示であったのだ。George Makariによればフロイトは戦争の恐ろしさhorror of war を体験することで、それまでの性本能論に基づいた快原則から、儚さ等の現実を受け入れることの重要さを認識するという意味での現実原則を重んじる立場へと驚くべき方向転換 staggering about face (2008, 319)を行ったとしている。