2021年2月19日金曜日

儚さ 8

 同一化の問題

これまで論じてきたフロイトの喪や儚さの問題に関して、対象との同一化  identification のテーマが特に重要であるため、ここに項目を分けて論じたい。フロイトが喪の作業に関する理論を推し進めた時期は、同一化に関する視点の変化と並行していたが、それが儚さと美の関連性に関するフロイトの考え方にもヒントを与えてくれている可能性がある。

フロイトは「喪とメランコリー」では、喪のプロセスは比較的明解なものと考えていた。「通常の喪の作業では失われた対象とのきずなは断たれることでリビドーは解放されて新たな外的対象に向かうはずだ。Just as mourning impels the ego to give up the object by declaring the object to be dead and offering the ego the inducement to love, so does each single struggle of ambivalence loosen the fixation of the libido to the object by disparaging it, denigrating it and even as it were killing it off.(Freud 257. Clewell.p. 60) それとの対比で、フロイトはメランコリーにおいては亡くした対象との「同一化identification of the ego with the abandoned object (249,Clewell 60).」が起きていると考えた。リビドーは対象から切れないが、対象自体はもういないため、その対象は心の中に取り込まれ、内在化されるしかない。このプロセスをフロイトは「同一化」と呼んだ。たとえば赤ん坊は母親のオッパイを吸って母乳を体に取り入れることを原初の同一化であると考えたのだ。(フロイトにとっての同一化の原型は、oral phase において食べたものを自分の一部にする過程であった。弟子のアブラハムが同一化とoral phaseとの関連性を指摘したことが影響したのであろう。)このようにフロイトは「悲哀とメランコリ―」の時期はまだ同一化を発達初期には見られると共に、成長してからは、メランコリーの際のような病的なものと考えていた。この同一化により心の中で一つの単位、彼が呼ぶところの「批判的な機関 critical agency」が成立し、それが自分の中で自分を責めるとした。(ちなみにこのプロセスは解離性の別人格の成立と似ていることになる。)

しかし「喪とメランコリー」から6年後の「自我とエス」の論文で、フロイトは同一化を病的なものとしてではなく、喪の重要なプロセスと考えるようになった。(Clewell, 61)これとともにフロイトが強調するようになったのは、喪は長期間にわたって継続していくという考え方である。これは「儚さ」における主張1(喪の作業はやがて自然に完了する)からの明らかな変化であった。

ところで「悲哀とメランコリー」の記述から一つの疑問が浮かび上がってくる。フロイトはこの時点では、喪はリビドーが失われた対象から撤去されるプロセスであり、それはメランコリーにおける内在化とは別のプロセスと考えていた。しかしフロイトはこの正常な喪のプロセスにおいても、内在化に類似した過程を述べているかのようである。彼は失われた対象を忘れるためには、その対象がいったん強く想起されることを必要とする。“Each single one of the memories and expectations in which the libido is bound to be object is brought up and hyper-cathected, and the detachment of the libido is accomplished in respect of it. When the work of mourning is completed, the ego becomes free and uninhibited againリビドーが対象に結びついていたような記憶や期待はことごとく取り上げられ、超備給される。それによりリビドーの離脱が可能となる。喪の作業が完了すると自我は自由となり解放される。

”(p.245)

このプロセスについてClewell は次のように言う。”The work of mourning, as Freud described it here, entails a kind of hyper-remembering, a process of obsessive recollection during which the survivor resuscitates the existence of the lost other in the space of the psyche, replacing an actual absence with an imaginary presence.”(p.44).”With a very specific task to perform, the Freudian grief work seeks, then, to convert loving remembrances into a futureless memory.(p.44)”.

フロイトの考えたこの失われた対象の過剰記憶や、空想上の存在 imaginary presence (Clewell) は、メランコリーにおいて生じているはずの同一化とどれほど異なるプロセスかは不明であり、両社は少なくとも質的に類似する。それらはいずれも心に対象のイメージが刻まれることでは共通しているからである。「喪の先取り」はいずれにおいても生じているのだ。そしてこのことの気づきからフロイトが喪のプロセスが結局は失われた外的対象との同一化のプロセスであるという気付きへとつながったとしても驚くには当たらない。

フロイトは同一化のプロセスについての考えを磨き上げることで、それが単なる記憶でなく、ある生命を宿した審級として心に宿ることを見出した。失われた対象は冷たい記憶として残るのではなく、自我の一部となって命を得る。Clewell はこのプロセスを次のように表す。亡くした他者を、悲嘆による同一化により内在化することで人は主体になる。

it is only by internalizing the lost other through the work of bereaved identification, Freud now claims, that one becomes a subject in the first place.(p.61)

それが豊かさを備えた自我となることで現実の対象は消えたのちにより高い価値を得られるようになるというのがフロイトの考えであった。そしてそのプロセスは対象がその将来において失われるという「儚さ」を伴った状況においても、「喪の先取り」により進められる。これを取り込まれた対象は心において生命を与えられ、あたかも衛星が恒星として自らの光を放つことでその価値を高めるというイメージはあながち間違っているとはいえないであろう。

むろんこのような対象の同一化についての理解は、先ほど見たスラビンにより描かれたホフマンによる理解、すなわち私たちの主体性には他者性が既に含まれているという立場と一致する。逆に言えばフロイトにおける同一化の理解は弁証法的構築主義の理解を予見していたことになるだろう。