Transience and its cultural implications
本稿ではここまでフロイトの対象の儚さについての理論が彼の死生観や美や芸術にいかにつながるかについて検討してきた。しかし極めて類似した考えを日本における文化や思想に見出すことは出来るのは大変意義深い。
儚さ transience について日本文化との関連で論じた精神分析的な論考としては、北山修のそれがあげられる。北山はtransient (儚い、無常な)が Winnicott の概念に見られるようなtransitional (移行の)と区別されるべき点を強調した。そしてtransient は時間的な推移であるのに比べ、transitional (移行の)は場所的な推移であると説明した。北山の論文のTransience: its
beauty and danger(1998)という題名に見られるように、北山は日本文化の中にこの儚さに美を見出すという伝統が存在することについて論じている。そこでは人は移ろいやすいものに失われる自分自身を投影する傾向にある。北山は日本人は最後が別離で終わる物語を好む傾向があるとし、特にそれが日本人のマゾキズムと連動している点に注目してこう述べる。「この抑うつ的な傾向は示唆に富んでいるように思われよう。しかしこれは病的なまでに自己破壊的で、自分自身の命も含めたすべてを儚いものと感じることにつながる。」
北山論文の中で美に関する記述を以下に引用しよう。In my opinion,
transition can be just joyful but it is often accompanied by a sense of
transience or transiency that is more or less painful sentiment, sometimes even
involving an artistic sense of beauty as well as sense of sadness, emptiness
and depression. (p.940)
つまり北山もまた、儚さが醸す美について、その根拠は示していない。というよりは浮世絵などの美術作品を見れば明らかではないか、ということだろう。しかしそこにマゾキズムに伴う快“joyfulness”の存在を間接的に伝えているとみなすことは可能である。
ここで述べられている日本人や日本人の特性を、対象や自己をその不在の契機とともに体験することとして表現することができるであろう。もちろんそれを体験しているのは現在であるが、将来の不在を読み込んで、あるいはフロイトの表現を借りるならば喪の先取りをしつつ体験していると言えるのではないだろうか。
このテーマに関連して、岡野の「受け身性、行動を起こさないことと日本のエディプス Passivity,
non-expression and Oedipus in Japan」という論文も参考になる。そこで岡野は「日本では秘密にされ、表現されないことの中に真実があると考える傾向にある」と述べる。彼は日本社会では受け身的で、行動を起こさないことが、逆説的にある種のアピールや誘惑としての意味を持つ可能性について論じた。この理論によれば、日本文化においては人々が物事や行動に不在の契機を持ち込むことで、そこに逆説的な価値や美意識を表現していることを示している。その一つの分かりやすい例は羽裏である。羽裏とは日本で羽織の裏側に華美な絵を施すことを言う。人は外には表れない美を内側に着込むことで精神的な優美さをまとっていると感じる。いわばその装飾を不在の契機を持ちつつ着ていることになる。
北山も岡野も、日本文化において対象をその不在の契機とともに体験することの美的価値を強調しているが、これはフロイトの「喪の先取り」の議論と類似しているとは言えないだろうか。そこで一つの問題は、日本におけるこの対象の不在の契機の問題がどのような思想的な系譜を孕んでいるかを明らかにすることである。
この点の導入を果たすのがルディ・ベルモートや日本の精神分析家松木の研究である。彼らは哲学者西平直との対話を通じて、それが我が国の哲学的な伝統における無や空の思想と深く結びつく点を示唆している。ここで論点を先取りするならば、これらの無や空の概念は、実は儚さの概念と極めて近い関係を示しているのである。