2021年2月7日日曜日

続・死生論 29

 フロイトはこの時期はまだ同一化を何か異常なもの、病的なものと考えていた。そしてこの同一化のプロセスはメランコリーという病的な状態で起き、それは一種の批判的な機関critical agency を作り、自分の中で自分を責めるとした。(このプロセスは解離性の別人格の成立と似ていることになる。)繰り返すが、これは病的なプロセスだ、健康な場合には対象を「斬って捨てるkill off 」ことが出来るのに、とフロイトは考えていたらしいが、フロイト自身それが出来ないことに気が付いたのだろう。そしてこの考えが超自我の形成されるプロセスとして健全な状態で起きるのだと考えるようになった。それと同時に、では自我も必要だ、という事になった。そして6年後の「自我とエス」の論文で、フロイトは同一化を喪の重要なプロセスと考えるようになった。(同一化=内在化 という事はClomwell の次の理解を読めばよく分かる(p.61)it is only by internalizing the lost other through the work of bereaved identification, Freud now claims, that one becomes a subject in the first place.

フロイトの自我の概念はelegiac 哀歌的だと表現されるとき、自我は同一化した対象の蓄積だという考え方を言うらしい。なんだか私たちのDNAのようだ。私たちのDNAのかなりの部分は、昔人類が罹患したウイルスのDNAが吹き溜まったものであるという。DNAはまさにelegiac な存在というわけだ。フロイトはこの同一化という事を考えるようになった時、これは一朝一夕にはいかないと思ったのであろう。フロイトはこう思ったはずだ。「亡くなった人のことを悼んでいる以上、この同一化はまだ完全なものではないはずだ。」こうやってフロイトにとっての「喪」は、切り捨てる行為から、時間をかけて同一化(内在化)する行為となったのだ。しかしそうなると次のような疑問がわいていい。目の前に対象がいるうちから同一化は始まっているのではないか。フロイトはこの味見、ということを言ったが、これはこの同一化のプロセスを指しているとも考えられる。対象と関わるという事は、その対象が目の前から消えているかどうかにかかわらず、その喪の作業を最初から始めていて、失う心の準備をして、それは終わることがないのだ。フロイトは花がやがて枯れてしまうことをもちろんよく知っていた。そして実際に消えてしまう前に喪のプロセスを始めることの重要さを感じていた。それはすでに「儚さ」で生まれていた発想であると言える。

でもそれなら、例のエネルギーの議論はどうなったのだろう。それはむしろ記憶の固定に消費されたという事だろうか。フロイトの言葉を借りれば記憶痕跡の形成と言えるかもしれない。

Each single one of the memories and expectations in which the libido is bound to be object is brought up and hypercathected, and the detachment of the libido is accomplished in respect of it. When the work of mourning is completed, the ego becomes free and uninhibited again”(p.245)

つまりこうだ。対象を「斬って捨てる」とは強烈に記憶に刻むことでリビドーをそれから引きはがすという事だ。でもこれは結局は内在化ないし同一化という事にはならないか。フロイトは「悲哀とメランコリー」で、喪に服するとは、強烈に記憶に残す、と言い、メランコリーでは同一化し、取り込む、と言ったが、よく考えたら似たようなことを言っていたことにならないか? あえて言えば喪では記憶という静的なイメージを持つものを、メランコリーでは亡くした人の取入れという、動的なイメージのものを考えていたが、よく考えるとどちらも同じようなものだ、という理解にフロイトは至ったという事であろうか。

ともかくもこうしてフロイトは内的対象というアイデアをこの時点で明確にしたという事だろう。そしてそれは構造論の成立という事をも意味していたというわけである。