2021年2月6日土曜日

続・死生論 28

 喪における同一化の問題

ここで特にこのテーマで論じたいのは、フロイトの喪や儚さの問題に関して、同一化identificationのテーマが特に重要と思われるからだ。というのもこの時期にフロイトは同一化に関する心のモデルの大きな転換を行い、それがいわゆる構造論モデルの成立につながったのだが、それがこの喪の理論の成立に深くかかわっていたからだ。そしてこれはもちろん「儚さ」をどのように理解するべきか、という事にも影響するはずだが、私がこれまで意識していなかったのだ。

分かりやすく言おう。フロイトはかねがね人は誰かを亡くしてどうしてこれほど苦しむのだろうと考えていた。もちろん彼自身の人生における喪失体験があった。彼は恐らくさっぱりした性格でありたいのだろう。「亡くなったものに、失ったものに拘泥してどうする!ちゃんと喪に服せばいいのだ」と「儚さ」で芸術家を叱咤激励したのもそういう感じだ。フロイトは「儚さ」の少し前に書いた「悲哀とメランコリー」において、一つの考えを抱いていた。「通常の喪の作業では失われた対象とのきずなは断たれることでリビドーは解放されて新たな外的対象に向かうはずだ。just as mourning impels the ego to give up the object by declaring the object to be dead and offering the ego the inducement to love, so does each single struggle of ambivalence loosen the fixation of the libido to the object by disparaging it, denigrating it and even as it were killing it off.(Freud 254. Clomwell.p. 60) つまり「お前のことはもう忘れたぞ!エイヤッ!」と決別するのが正常な喪であると言った。そしてそれとの対比で、フロイトはメランコリーにおいては亡くした対象との「同一化identification of the ego with the abandoned object (249,Clom 60).」が起きていると考えた。対象にリビドーが付着したままで心の中に持ち込んでしまうからややこしいのだとしたのだ。私なら「これは内在化ではないか」と思いたいが、これをフロイトは同一化と呼んだ。「同一化により内在化される」という紛らわしい言い方を実際している。分かりにくいのは、フロイトは「喪」として考えていたのは、失われた対象を取り込むことではなかったのだ。すっぱりあきらめ、リビドーを撤去することが喪なのだと。詩人にもそうしなさいと言っていたわけだ。しかし取り込まないけれど記憶するのだ、という言い方をしている(後述)