2021年1月18日月曜日

続・死生論 9

 フロイトの「無常について」

「無常ということ」は、1916年に「ゲーテの国」という本に収められたフロイトの短いエッセイである。このエッセイは田園を散歩中のフロイトと詩人や芸術家との間で繰り広げられる対話について語るという形式をとっている。詩人はやがて滅びてしまう美について嘆く。それに対してフロイトはこんなことを言っている。「やがて消えていくからこそ美しいではないか。」「移ろいやすさの価値は、時間の中で希少であることの価値である」。そして美しいものは、それが消えていくことで、「喪の前触れ」を感じさせ、そうすることでその美しさを増すと主張し、これが詩人や芸術家の美に関する考え方と異なる点であることを強調している。フロイトは詩人や芸術家たちは、美に永遠の価値を付与しようとするというのだが、それは彼らが喪に対して反撃しているからであるという。

フロイトのこの論文は「悲哀とメランコリー」と同時期に書かれ、対象を喪失すること智の問題についてのこの時期のフロイトの考えを表している。しかしこの論文においてフロイトは自らの命の終わりについて特に言及はしていない。

初めにこの「無常について」という論文の精神分析的理論の中での位置づけについて論じる。多くの識者がこの短い論文に触れているが、近年ではMatthew von Unwerth という人の”Freuds RequiemMourning, memory and Invisible History of a Summer Walk (2006)という著作がこの論文に関する深い論考を行っている。この著書でvon Unwerthは、フロイトのその他の論文に見られない側面が、このエッセイには表れているとする。鎮魂歌というこの本の題名が示すとおり、この書は苦悩に満ちたセンチメンタルな、あるいはロマンティックな側面である。 we come to know a sentimental, melancholic, even Romantic. Book Review. Richard Gottlieb,p. 592)。またそれはフロイトの芸術や文学への関心を示し、さらにフロイトとリルケとザロメの人間関係にも焦点づけられている。ただし著者はこのフロイトのエッセイを死生論とみる傾向はあまりない。

 この「儚さ」の論文をフロイトの事実上の死生論であるとみなすという立場はIrwin Hoffman (1998) により明確に示された。Hoffmanは精神分析の文脈で死生観の問題について他に類を見ないほどに透徹した議論を展開している(「精神分析過程における儀式と自発性 Ritual and Spontaneity(Hoffman, 1998)の第1、および第2)

ホフマンはまず精神分析においては喪mourning に関する文献は多いが、死の問題についての論文は非常に手薄である点を指摘する。そして死の問題は実は私たちの日常思考に密接にかかわっていることを、Jean-Paul Sartre Maurice Merleanu-Ponti などの実存哲学を引きつつ説明する。抽象概念は無限という概念を前提とし、それは同時に死の意味を理解することでもあるからだ。そして Hoffman はフロイトの1916年の「無常ということ」は彼が論文が死についてのフロイトの考えが、実はある重要な地点にまで到達していたとしている。フロイトはこのようなすぐれた考察を残しながら、結局は死すべき運命への気づきを彼の精神分析理論の体系の中に組み込まなかったようである。その意味で彼の理論は結果的に反・実存主義であったとさえ Hoffman は言う。