2021年1月19日火曜日

続・死生論 10

 ホフマンによればフロイトはその理論の変遷の中のいくつかの文脈で死について論じているものの、そこに首尾一貫した死生論は見いだせない。それらの文脈とは以下の4つとされる。1.局所論的モデルからの観点、2 死の欲動の観点、3.構造論的観点、4「無常について」に見られる「実存的」観点である。

このうち1、については、ホフマンは最初にフロイトが死について論じた1915年の「戦争と死に関する時評」(3)で「無意識は不死を信じている」と述べていることを指摘する。死は決して人が想像できるものではないからだというのがその理由であるというのがフロイトが示す根拠である。しかしフロイトはまた「ナルシシズム入門」(4)で「死すべき運命は人の自己愛にとって最大の傷つきともなる」という主張も行なっている。ここで自分が想像することが出来ない死を、しかし自己愛に対する最大の傷つきと考えるのはなぜか、ということがフロイトの議論の中での大きな矛盾点である、とホフマンは指摘する。またこの考えはフロイトの「無意識は無時間的である」という提言と矛盾するという。時間性が欠如するという点については、「不死」つまり未来永劫生き続ける、ということも想像できないはずだからだ。だから結局無意識は死すべき運命も、不死についても、両方を含みうるのではないかというのがホフマンの主張である(p,79)。そしてホフマンは、結局フロイトの主張の逆こそが真なのであり、無意識に追いやられるのは、死すべき運命の自覚であるという。つまり人は「自分はいずれ死ぬのだ」という考えこそを抑圧しながら生きているというわけだ。そして精神分析の世界では死に関するフロイトの矛盾した主張が延々と継承されてきたということを遺憾とする。

ここでのホフマンの主張は常識に照らしてもおおむね納得のいくものだと筆者も考えるが、「不死でありたい」という願望はどうだろうか? それは非現実的だから抑圧されるであろうし、それがフロイトが言いたかったことではないだろうか、と筆者は考える。

改めて考えると、自らの死すべき運命についての心理的な処理の仕方はおそらく多層的である。通常の意味での生が終わることを覚悟はしていても、何らの形での来世の存在を信じるかにより、その覚悟は微妙に異なる可能性がある。ただまず否認や抑圧の対象になるのは、死すべき運命の方であるという主張はフロイト以降の死生学において繰り返して主張される。

エルンスト・ベッカーはその大作「死の否認」において、自らの死すべき運命に対してそれを不安に感じたり否認したりするのは人間存在の根本的な問題であり、実存的なジレンマであるという。そしてフロイトはその理論体系そのもので死の否認を行っていたことを示唆する。その性愛論においても、抑圧されるべきは性愛性ではなくて死すべき運命そのものだという。ベッカーはそれをフロイトの決して屈しない not yielding 性向に関係するとし、「エディプス的な計画」という用語を用い、人が死すべき運命を乗り越えようとする試み、いわゆるcausa-suiの一つであるとする。またフロイトの後年の死の本能という概念が、死すべき運命を生物学的、本能論的なものとして対象化して扱う試みであった。

しかしベッカーは現実の人間としてのフロイトが自らの死をどのように扱っていたかについても言及する。フロイトは他方ではすべてのエディプス的な戦いを止めて屈服することへの願望を有し、それがいくつかの失神のエピソードにも表れていたとする。これらのベッカーの考察は極めて示唆的であるものの、それが特に「儚さ」の論文を扱っていないことが残念である。